比較憲法学から見た日本国憲法

このところ表だって政治や経済のことを話題にしようという気はどんどん薄れているのであるが、arz2beeさんのブログ(参照)に取り上げてあったので読んでみた。なるほど、比較憲法学という観点から、色々なことを教え、考えさせてくれる本である。まず、日本国憲法硬性憲法(簡単に改憲できない憲法)であり、それが世界の普通であるということ。それは、憲法は国家の権力を制限するものであるという、立憲主義の立場からも不可欠である。でなければ、時の政権の意に満たねば、政権が自分たちに都合がいいように簡単に改憲できてしまうからである。そもそも、立憲主義というのはごく標準的な(というか、基本中の基本の)考え方なのだが、日本ではなかなか知られていないし、もちろん安部首相も知らない(ふりをしている?)ことは明白である(明治の元勲たちはきちんと理解していた)。よく改憲派の持ち出す議論として、外国では頻繁に改憲が行われているのに、日本だけそうでないのはおかしいという(この議論はそれだけでも論理的でないけれど)ものがあるが、世界的に見ても日本の改憲基準は決して厳しいものではなく、例えばアメリカなどでは改憲は日本より遥かにむずかしいのであって、それでも改憲が必要な事情があったから改憲したのである(ドイツ、フランスなどでも同様)。日本も、必要があれば現在の基準でやって問題はないのだ。
 それから、「押し付け」憲法論議。これも本書に詳しいが、「押し付け」の経緯は複雑であり、今までの議論は雑なものが多すぎる。例えば、GHQ案は鈴木安蔵らの「憲法研究会」の草案の影響下にあったし、また日本側が「押し付け」憲法を受諾したのも、日本側の思惑もあった。そして、憲法施行の一ないし二年後の国民投票GHQは勧告しているが、日本側はそれを行っていない。そしてさらに重要なのは、日本国憲法は仮に「押し付け」だとしても、第九条を除けば、現代的な観点から見ても、標準的で問題の少ない憲法だということである。というのは、自分はよく知らなかったのだが、現在の自民党草案があまりにもひどいからだ。何がひどいかというと、特に立憲主義に完全に逆行しているからである。ここでは、憲法は主権者たる国民が権力を制限するためのものではなく、国家が国民の統制を行うためのものだという発想を隠してすらいない。これは少なくとも先進国の憲法ではあり得ないことで、このようなものは一部の途上国にしか見られない。正直言って、この草案に改憲されるくらいなら、現行の「押し付け」憲法の方が遥かにマシである。
 それから、「第九条」の問題であるが、これが実情に合わないという考え方は一定の合理性があると思う。しかし、「第九条」を「平和的生存権」の観点から見た場合、決して時代遅れどころか、現在のアクチュアルな議論に関係していることもまた明らかである。そもそも、憲法に平和条項を含む国は、これも決してめずらしいものでもなんでもない。むしろ、憲法に戦争状態の規定を含めるといった発想はあり得るだろう。
 以上、一市民は本書をこう受け取りました。もちろん、色々な読み方があり得るだろう。自分としては、考えるきっかけになった点、有意義な読書だったと思う。

平和構築には事実を知れ

キャッチーな題なのが残念である。著者の伊勢崎賢治さんのことを知っていなければ、自分も手に取らなかっただろう。伊勢崎さんは世界各地で武力紛争の武装解除に携わる一方で、東京外国語大学大学院で「平和構築・紛争予防講座」を教えておられる方である。特に日本政府特別代表としてアフガニスタンにおける武装解除を成功させたのは、大きな仕事であった。自嘲も込めて、「紛争屋」と自称されているくらい、世界各地での紛争の現場に詳しい。本書はその伊勢崎氏が、日本の集団的自衛権の問題その他に対し、持論を述べたものだ。集団的自衛権に関しては、政府の挙げた事例をすべて論破しているので、実際にお読み頂きたいが、自分はその他にも、教えられるところが大変に多かった。特に印象に残ったのは、安倍首相が著書で「軍事同盟というのは血の同盟であって、日本人も血を流さなければアメリカと対等な関係にはなれない」と言っているそうで(p.112)、これは首相の(日本人らしい)無意識を思わず出してしまっているところであろう。伊勢崎さんは、このような「血の絆」の如きウェットな感覚は、アメリカの方にはまったくないと指摘しているが、まったくそのとおりであろう。アメリカとしては、自国の利益になるかどうかだけが問題なのであって、日本がアメリカ(軍)にどうしても必要だ(例えば、第七艦隊の母港は事実上日本にある)ということだけが事実なのであり、余計な感情は理解できないものである。自分は、日本人のウェットなところは悪いことばかりではないと思うが、国際関係には有害無益なものだとも思う。
 本書は徹底的に事実の書である。イデオロギー(右翼とか左翼とか)はまったく関係がない。とにかく日本人は、頭の中だけで考えられた(マスコミ、ネット等の垂れ流す)妄想だけに頼らないで、まず事実を知るべきだろう。例えば伊勢崎さんは、憲法第九条はいずれ改正されねばならないのかも知れないが、今のところ、紛争処理などに関して現実的に役に立つ(それは伊勢崎さんの体験である)ことを指摘している。そしてまた、日本は中東などでも「美しく誤解」されていて、これは失うには惜しい日本の財産になっているそうだ(それがなければ、アフガニスタンにおける武装解除の成功はあり得なかったそうである)。
 それにしても、自分はイデオロギー的には左翼的なのであろうが、自衛隊は本当によくやっていると思う。驚くべきことに、自衛隊には「軍法」がないので、PKOで海外に派遣されても、隊員たちの自覚だけでやっているそうである。実際に何をやっているかというと、危険地帯でわざわざ目立つ格好をして、「日本の軍隊は人を殺しませんよ」ということをアピールしているというのだ。戦闘行為とはちがう、これはこれで大変な重圧であろう。自衛隊員は戦闘行為では死んでいないが、PKO活動から帰ってきた隊員たちには、相当の自殺者が出ているという。伊勢崎さんによれば、現在のPKO活動はどこでも非常に危険なものになっており、自衛隊が戦闘に巻き込まれていないのは幸運だという。
 最近の中国との緊張関係で云えば、戦争になっても失うものは多くて尖閣諸島くらいのものであるし、それよりも、叡智を絞れば平和的に解決することはきっと可能だと、過去の各国の紛争を解説しながら述べる。キーワードは「ソフトボーダー」で、当事者双方が「痛み分け」を承認することにより、紛争を終わらせるやり方である。現実的には、それしか方法はない。事実としては、過去中国は尖閣諸島のソフトボーダー化を事実上容認してきたのであり、日本の民主党政権が無知によりそれを覆してしまったわけだが。
 とにかく我々に足りないのは、まず事実を知ることであろう。本書は、きっとその目的に叶うものだと信じている。

ロボット研究はここまできているのか

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

「ロボットは心を持てるか」というよくある命題から始まるが、あまりそれに拘る必要はない。第二章「自ら概念を獲得するロボット」というのは、センサー群による複数の閉じた入力(マルチモーダルな情報)から、クラスタリング(一種の計算)によってロボットが「概念」を創造するということを解説していて、とても刺激的かつ興奮させられる。敢て場違いな言い方をすれば、コンピュータに「イデア」が作れるということになるのではないかと思った。ほぼ「無」から、カテゴリーを作り上げることを可能にしている。視覚や聴覚、触覚などの情報を使ってですよ。これはおもしろい。
 第三章「自ら言葉を学ぶ知能」は、ある意味第二章の延長線上にあって、予備知識なしに言語分析を可能にするシステムを扱っている。例えば、「不思議の国のアリス」の原文から単語の区切りの空白を抜いたものを与えて、分節化をほぼ可能にしている。これもすごい。これは、第四章「潜んでいる二重分節構造」につながり、言語の二重分節構造が、視覚などにも応用できるのではないかというもので、最初はミスリードかとも思われたが、一定の成果を収めているのには驚かされる。
 第五章「ロボットは共感して対話する」というので、人間の曖昧さをロボットが察知するだけでなく、ロボットに曖昧に指示させて、それを人間が類推する、なんてことをやっているのもおもしろい。第六章「構成論的アプローチ」と第七章「記号創発システム論」は一種の弁明で、この著者らが研究している分野は、他からよほど「科学ではない」と云われているらしく、それらに対する弁明・反論になっている。まあなくてもよい部分かも知れないが、こうした科学論は自分は嫌いではない。まあ、本当に研究自体がおもしろいんだから、いいのではないの?
 しかし、知らないことばかりで、勉強になったし、なにしろ刺激的だった。実際のモデル理論などもわかるともっと面白いのだろうが、まあそこまでできれば研究者になってしまうから、自分にはむずかしいだろうな。いや、こういうぶっ飛んだのが出てきて、若いのにすごいです。若い研究者ばんざい!

エピジェネティクスと獲得形質の遺伝

アマゾンのレビューで、本書をかなり否定的に評したものが多かったので、そこらあたりも注意して読んでみた。なるほど、そう評されるのも無理はないところもある。まず、これは著者がどうしようもないことだが、エピジェネティクス自体が説明するのにかなり厄介な現象だということである。エピジェネティクスというのは、一種の遺伝的な現象であり、かつDNAの塩基配列の変化を必要としないにもかかわらず、遺伝的な変化が受け継がれ得るようなものである。具体的には、(1)ヒストンのアセチル化による遺伝子発現の活性化と、(2)DNAのメチル化による遺伝子発現の抑制によってなされる。これらを理解するには、かなりの予備知識が必要で、本書で尽く説明できるようなものではない。予備知識について言っておけば、本書には高校レヴェルの化学と生物学の知識は必須である。生物学に関しては、じつは大学教養部レヴェルの知識も必要かも知れない。また、以上は基礎的な話だが、本書の中には研究者レヴェルのジャーゴンが平気で使われているところが多々あるので、これらすべてを理解する必要はないことを言っておきたい。この辺は少し不親切かなと思った。
 で、本書を読んでいってある程度理解できれば、著者が口を濁しているところがわかるかも知れない。それは、エピジェネティクスが一種の「獲得形質の遺伝」をもたらすのではないか、というものである。獲得形質の遺伝は現代の生物学では完全に否定されているので、ここはどうしても慎重にならざるを得ないのであろう。しかし、以前から「異端的」な研究者たちによって、獲得形質の遺伝を考えに入れないと説明しにくいような現象が見出されているので、それが可能になるかどうかは大問題である。自分個人もこのあたりは非常に興味深いものを感じるのであるが、一方では、受精卵においては殆どのDNAメチル化(すなわち獲得形質)が消去され、リプログラミングが生じるらしいから、簡単に断言できることではない。というか、まだ何が正しいのかははっきりしていないと云えるだろう。
 それでも、遺伝には関係があるとも思われていなかったヒストンが、遺伝子発現に影響を与えるなど、とても面白い学問分野であることは間違いあるまい。本書が初学者には難解というのは、だから残念でないこともないのである。エピジェネティクスに関する他著も、読んでみたい気を起こさせる。

山本義隆三部作の完成を言祝ぐ

ようやく全巻を読み終えた。これで、『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』に続いて、三部作が完結した。それにしても、厖大な仕事であり、それも科学史として第一級のものであることは疑いない。この分野の本で、これほどまでに総合的であり、レヴェルの高いものは、欧米にもあるまいと思われるほどである。よくも日本にいてここまでやれたものだ。恐るべき知的膂力であると云う以外にない。
 第三巻の本書では、いよいよティコとケプラーの登場であり、読んでいて興奮させられた。ティコの観測技術の高さをいったい何がもたらしたのか、技術的なことまでバッチリ書かれているし、ケプラーに至っては、ケプラーの思考過程にまで踏み込み、現代的な数学表現まで与えてある。これを読むと、科学史上画期的な、惑星の軌道が楕円であることの発見(ケプラーの第一法則)には、エカントの物理的解釈がブレイクスルーになっていることがわかり、驚かされる。なるほど、従来の天文学でわかりにくかったエカントの導入に、かくして根拠を与えることが重要だったとは、後知恵ではよくわかるのだが。(ただし、巻末の数学的補遺も含め、数学的には高校数学をマスターしていればそれ以上の知識は必要ないが、ケプラーの思考過程は難解なので、自分もざっと目を通したに過ぎないことは断っておく。)そして、仮説を出して、実際の定量的な観測でそれを確認するという、まさしく物理学の誕生が、ここケプラーの段階で始まったことが宣言されるのだ。著者の言うとおり、影響が大きかったのは(実験を導入した)ガリレオの存在であることは、今でも変わりがないが、物理学の誕生に関するケプラーの貢献は、それでも画期的であったわけである。
 なお、物理学一筋に見える著者の姿勢だが、本書を読んでいれば、著者の幅広い読書範囲は明らかではあるまいか。文化的背景に関する理解も、明示的でないだけで、自分はしばしば驚嘆させられた。自然と「教養」が滲み出ているのだ。幅広い読書を嘲笑すらする最近の書き手にはない、深い文化理解が見られる。著者は誇示しないが、例えば古典だって、文学すらも、著者は幅広く読んでいるわけですよ。それでこそ、第一級の思考力が引き立つのである。皆さん、是非この三部作を読んでください。

大江健三郎と「想像力」

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

世には色々な大江論があるだろうが(自分はまったく読んでいないけれど)、自分には大江さんは不思議な小説家だ。文学音痴が云うのだから読み飛ばして欲しいが、自分には大江さんはめちゃめちゃ面白いのだけれど、何が面白いのか、言うことはとてもむずかしい。前にも書いたように、自分の無意識を面白がらせるとしか、云いようのないところがある。本書を読んでそれに敢て付け加えれば、それは「現代における想像力」の問題なのだと思う。imagination は image が元になっている語だし、「想像力」には「像」という字が入っているところで、そして今は「イメージ」というのは評判が悪い。「イメージ批判」というのは今では「知」(という言い方は時代遅れか)の最も初歩的な課題だし、その意義もわかるけれど、それでも「想像力」は重要であると言いたい。それはむしろ、「イメージ」とはあまり関係がなく、知性に関係するものである。大江健三郎の小説に紋切り型のイメージがないとは云えないかもしれないけれど、それでも氏の想像力は非凡だと確信する。そうでなくて、現代にウィリアム・ブレイクを対峙させることができるだろうか。本書は、障害を抱えた氏の長男「イーヨー」さんに関する連作短篇集であり、家族の物語でもあって、氏の家族は困難に打ち当たることはたくさんあるが、決して特別な家族ではなく、敢て云えば我々と同じで、それゆえに感動的だ。本書ではブレイクの言葉が(時には原語を交えて)重要な役割りを果たしているが、ブレイクは決して我々凡人に関係のない詩人ではないことを、本書は教えてくれるようである。
 なお、どうでもいいことだが、鶴見俊輔氏の文庫解説は、文章を書くことを生業とされている方のものとしてどうなのだろうかと思った。氏は大変に頭のいい方だとは思うけれど、プロとしてこの程度の文章で許されるのであろうか。まあ、自分などがいうのも何であるが。

維新史を書き換える画期的な歴史書

元本は、文春新書の『孝明天皇と「一会桑」』。何の気なしに読み始めたのだが、そうしたら驚くべき歴史書だった。誇張して云えば、明治維新史を一新するほど画期的な本である。まず、副題にある「一会桑」であるが、これが著者の造語であるかは知らないけれど、一橋慶喜会津藩桑名藩を指すもので、本書の決定的に重要なタームである。本書の問題意識は、薩長が本当に最初から「倒幕」を意識していたのであろうか、というものである。むしろ、最初の攻撃対象は「一会桑」だったのであり、倒幕というのは、徳川慶喜の戦略に追い詰められた薩長が、最終的に「鳥羽伏見の戦い」で窮鼠猫を噛んでしまった末にあったものである。著者の見立てはそういうものであり、本書の記述は説得的だ。だいたい、薩摩藩の内部ですら意見はわかれており、大政奉還を行った後ですら、巨象であった徳川家に簡単に戦いを挑めるものではなかった。西郷や大久保ですら、もちろんヘゲモニーを握ろうとはしていたものの、倒幕ということは考えていなかったのである。
 本書の特徴としては他にも、極端に攘夷を唱えた、孝明天皇の果たした役割の大きさを明るみに出している。また、これも最近のトレンドであるが、幕閣は必ずしも無能ではなかった。徳川慶喜もまた然りで、彼は非常にうまくやったのであり、鳥羽伏見の戦いは痛恨のミスであった。その他、記述の解像度がかつての歴史書を凌いでおり、維新史というものが至極複雑なことを教えてくれる(正直言って、自分にも細かいところはよくわからないくらい)。少なくとも、維新史というのは、素人が簡単に手を出せるようなものではないことが、よくわかった。いずれにせよ、画期的な本だという印象は強い。
孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)

孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)