「役立たずな知識の有益性」と物理学

山形浩生氏が(勝手に)訳した、フレクスナーの「役立たずな知識の有益性」(参照)はなかなか面白い。物理学の成果の殆どが、有益性とは関係のないところで追求され、得られたと云えるだろう(熱力学などは例外かも知れないが)。現代のハイ・テクノロジーの多くは、電磁気学量子力学の産物であるが、いずれも有益性などとは関係なく発展してきたものである。それを創り上げるという知的興奮(と名誉欲もないとは云えまいが)こそが、推進の原動力だったのだ。今やヒッグス粒子が発見されて、素粒子物理学標準模型はついに完成してしまったが、これで物理学者にとって、世界は退屈なものになるのだろうか。いや、一〇以上のパラメーターを持ち、無限大のくりこみを必要とする標準模型の「醜さ」が、物理学者たちを納得させないだろう(また、場の量子論と重力理論の相性の悪さなども)。物理学者の信念として、世界は単純で簡潔な法則で表せる筈である。ここに有益性など、これっぽっちもない。
 この論文で扱われているのは、物理を学んだ者にはそれほど意外な話ではないが、具体例の豊富さが面白い(例えばマルコーニの「コヘーラー」)。ちょっと気になるのは、相対性理論と非ユークリッド幾何学というので、これはもちろん一般相対性理論のことであろうが、揚げ足取りだけれども、これを数学的に記述するリーマン幾何学は、ガウスの貢献が決定的だったわけではない。実際、そのリーマンが行った決定的な講演(今で云う「計量」の導入)を老ガウスは聴いており、途轍もなく彼が興奮したことは有名だ。そして、アインシュタインが使ったのは、絶対微分学(今ではこの呼称は殆ど使われない)としてさらにのちに整備されたものである(ここにガウスの精神が受け継がれていることには間違いはない。ちなみにその絶対微分学を建設したひとりにレヴィ=チヴィタがいるが、この翻訳ではレヴィ・シヴィタと誤記されている)。まあ、これは大した間違いでもない。そして、有益性などからは最も遠そうな一般相対性理論ですら、今では例えばGPSの計算に不可欠なのであるから、これもまた驚くべきなのだ。

震災と或る一ブログ記事

ブログ「憂愁書架」の最新エントリー「最悪の一歩手前」を繰り返し読む。今回の震災について、これまでこれほどの文章を読んだことがない。深く心動かされた。
 書き手であるsaiki氏は、日本はあと一歩のところで踏みとどまっている、という現状認識をされているようだ。以下は反論などではなく、妄言に過ぎないが、さても、「真の日本のエートス」は、未だ失われていないのか。これは「最悪」ではなく、「最悪の一歩手前」なのか。略奪はおきなかったし、経済大国の名に恥じない、多額の寄付金は集まったし、皆助け合い、またボランティアに行く人々も少なくない。それは承知でダメな自分が恐る恐る思うのだが、日本人は既に「一線を超えて」しまったのではないか、との感を禁じえない。政治のことは言わない。例えば、事ここに至ってすら、これからも原発への依存は已むを得ないと考える日本人が半数存在するという事実には、自分の中で何かが切れてしまったように感じる。マスメディアも殆ど絶望的だ。テレビも新聞も震災商売に余念が無い。(テレビでしゃべっている奴等の顔を見よ。)ツイッターのタイムラインを見ていても、皆まじめなのはわかるが、自分がしゃべらされていることに気づかない、ナイーヴな方々が多すぎるのではなかろうか。
 これほどのことがあったのに、日本は何も変っていない。
 いや、悲観的に過ぎようか。連休ということでやって来ていた甥っ子たちが今日帰っていったが、これからの日本というと、自分にはまず彼らのことが頭に浮かんでくる。彼らの受け継ぐ日本は、いったいどのようなものになるのだろう。非力な自分に何ができるのか、というのは震災前から変らない自問自答であるが、それが一層突きつけられたという思いである。

或るソシュール本への疑問

沈黙するソシュール (講談社学術文庫)

沈黙するソシュール (講談社学術文庫)

最初にお断りしておくが、自分は本書をまだすべて読み終えていない。また、有名な『一般言語学講義』も、他書からの憶測でなんとなく内容を知った気になっているという(弁護の余地のない)理由で、偶々読んでいない。であるというのに書くというのは、本書の内容があまりにも信じられないからだ。以下、論文を書くわけでもないし、そういうことはどうでもいいので、簡単にメモ程度に書いておく。
 ソシュールの「ジュネーヴ大学就任講演」である。本書に拠れば、ソシュールは、フランス語はラテン語からの変遷であるというのは、誤りだという。どういうことかといえば、「ラテン語」というものから「フランス語」というものへの変化は連続的であり、明確にここで変化した、というような点はない、いってみれば、「ラテン語」も存在しないし、「フランス語」も存在しないとすらいえる、というのだ。「まえの晩sero[ラテン語「おやすみ」]と言って寝たフランスの人たちが、ボンジュールとフランス語で言いながら目をさましたことは、まずなかったわけです。」(p.64)
 ソシュールの言っていることは或る意味で正しい。しかしまた、やはり「ラテン語」は存在するし、「フランス語」も存在する。それは「事実としてあるから」ではない。事実としては、ソシュールのいうとおりなのである。ソシュール(そして前田)がまったく見落としているのは、虚構であるはずの(例えば)「日本語」が存在するのは、「日本」という権力と制度の構造が存在しているが故だ、ということである。(それは、アカデミー・フランセーズがあったからフランス語が存在した、というだけのことではない。)そして、「文化の連続性」ということが信じられている、ということも、またそうである。我々が「日本語」ということを意識するのは、「日本」「日本人」ということを抜きにしては、ありえないのだ*1。「標準語」というものが「存在」するのも、また同じ理由である。
 もう一つ。ソシュール(あるいは前田)は、どうも本書では、パロールについて一見語りながら、エクリチュールを密かに(詐欺的に)導入している点が多々ある。これは「おふらんす現代思想」ではないが、混同されるべきものではない。(「原エクリチュール」なんていうのは、ここでは考察しない。)何語であろうがエクリチュールがなくとも会話に不自由はしまいが、エクリチュールなくして「言語学」は絶対にありえない。これも信じられないような話である。
 以上、メモとして。ざっとは目を通したが、一応残りもちゃんと読んでみるつもりである。

追記

残りも読み終えてみて、大変に刺激的だった。本書に拠る限りのソシュールは、種の存在を信じられなくなった分類学者のようにもみえる。しかしまあ、拙い比喩はやめよう。特に本書後半になると、これはソシュールの考えなのか、前田の考えなのかわからなくなってくる感があるが、それも措こう。とりあえず、前田の抽出した、ソシュールの「ラング」の位置づけが興味深い。この「ラング」は大変に紛糾していて、ああでもないこうでもないと手を替え品を替え説明されているが、その紛糾の元は、次のような意識がないためだと思う。すなわち、「ラング」というのは、(「コトバ」はといってもいいが、)井筒俊彦的な意味で、「世界」そのものに他ならない、ということだ。ここがすべての元だと思う。「コトバ」と「世界」の間には隙間がなく、それがあると思うから紛糾するのだ。そして「単位」の「反復性」も、「世界」が変るだけでなく、「世界」の分節も変りうることにより、流動的になる。これらは鍵であり、ここから拓けてくる地平はほとんど無限だ。これがないソシュールのやり方では、西洋言語学の罠に絡めとられてしまって、結局行き詰ってしまうように思われる。そこでは、語がなにか実体とカップリングしているという発想から、抜けられないのである。

*1:敢て、次のようにも云えるだろう。「日本語」という「共同幻想」は一種のゼロ記号であり、明確な実体がないが故に強力なのだ、と。

日本人の学問について

最近つくづく思うのだが、概念を操作する思考では、大雑把に見て、日本は西洋に決して敵わないのではないか。西洋の学問と日本の学問を比べてみると、そう痛感せざるを得ないのだ。もちろん時には、日本人でも西洋人に負けない深い(この「深い」というのが特徴的である。「独創的」かどうかは、日本人はあまり問わないし、問えない)学問をする人は出てくるが、ほんの一握りだけのことだ。例えば数学や物理学を見てみると、日本人でもすごい人はいるが、西洋人の学者の、綺羅星のごとき質、量の壮観は、総体的にとても敵うものではないのである。結局、日本人は西洋に「追いつけ追い越せ」のスローガンそのままに、概念を巧みに操作し、独創性を尊ぶという、そういう方向を目指すべきなのか、それとも、「東洋」の「思考法」の伝統を受け継いでいくべきなのか。確かに日本人にしかできないことはあるとは思う。しかしそれにせよ、日本人は既に、「東洋」がわからなくなっているというのが殆どだろう。結局中途半端で、どちらでもないというところに、落ちていくような気がする。

これが現象学なのか

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

本書について、敢て積極的に語りたいこともないから*1、読んでいて何となく脳裏に浮かんできたことを、メモしておこう。

  • カントを根本的に否定するのは不可能だと言うこと。本書に拠る限り、フッサールのカント批判は、カントの方が大筋において正しいように思われる。実際、フッサールは晩年にはカントをかなり受け入れているように見える。
  • 諸学に対する数学の特異性、異質性を認めること。形而上学を数学のように厳密な学にすることは、そもそも不可能に思われる。形而上学に数学を導入するには、これもカントのやり方が根源的である。
  • 今ではすっかり評判の悪くなったベルクソンの試みが、哲学を補完するように思われること。しかし、これはうまく語るのがむつかしい。ベルクソンはどうしても、オカルトのようにも見えてしまうから。小林秀雄もうまく語れず、「感想」を本にしなかった。

 漫談になるが、フッサール独我論者といわれることも多いけれども、むしろ自我の形而上学者というか、とにかく読んでいて、西欧人の自我の強さが強く出た哲学者だと思わずにはいられない。我々もフッサールを理解することは勿論相応に出来るが、自分たちの実感として、こういう哲学は構築できないのではないか。日本人の哲学者を見ると、和辻哲郎などは秀才で、西洋哲学を使ってみせるなどお手のものだったと思われるが、その和辻の哲学が、間主観性を基に構築されていることなど、典型的だと思う。だから、日本人で「他者」を語っても、本当に他者と出会うことは、なかなかできない。それは、スケールの小さいなりに、自分を省みても、そうなのだろうと思う。しかし、これほど西洋を導入しながら、近年では却って統合失調症は軽症化し、その代りに「解離」が一種のジャーゴンにすらなっている現状は、どういうものなのだろう。我々のちっぽけな自我は、一体どうなってしまったのだろうか。

*1:本書の数学や物理学の記述について、揚げ足をとりたい箇所は少なからずあるが、一つだけ書いておくと、多様体論で集合論を持ちだすのは殆どミスリードである。リーマン多様体やシンプレティック多様体という概念を考えれば、明らかだろう。

冤罪をつくるのは、検察とマスコミではないか

本日付の朝日新聞朝刊(名古屋本社版)から引用する。
「自称障害者団体を郵便割引制度の適用団体と認める偽の証明書が厚生労働省から発行された事件で、虚偽有印公文書作成・同行使の罪に問われ、無罪を主張する同省元局長村木厚子被告(54)の第8回公判は、24日午後も大阪地裁で続いた。村木元局長の共犯として起訴された当時の担当係長上村(かみむら)勉被告(40)は検察側の証人尋問で、元局長から不正な発行を指示されたとする捜査段階の供述調書は『でっち上げだ』と訴えた。」
「上村元係長は、昨年5月に大阪地検特捜部に逮捕された後の取り調べ状況を問われ、『検事は、自分の判断でやったと説明しても調書に書いてくれなかった。厚労省の組織犯罪にしたかったのでは』と主張。村木元局長の関与を認めた厚労省関係者の証言を知らされて誘導されるなどし、記憶に反する内容の供述調書に署名したと語り、『悔しい思いでいっぱい』と涙ぐんだ。」
「一方、偽の証明書は村木元局長にでなく、自称障害者団体『凛(りん)の会』(現・白山会、東京)元幹部の河野克史(こうのただし)被告(69)=元局長らとの共犯で起訴=に厚労省近くの喫茶店で手渡したと述べた。河野元幹部はこれまでの公判で、上村元係長からの受け取りを否定している。」
 言いたいことは二つ。(1)検察はこういうこと(調書をでっち上げるという、殆ど犯罪行為)をしておいて、罪に問われるどころか、責任を取ることすらないというのは、これでいいのか。(2)事件が起きた当初、マスコミは一様に、裏も取らずに検察の言うことをそのまま流して、その結果、村木氏は犯罪者に等しいような報道をされたが(報道を知った人の多くが、氏が犯罪者だと思ったろう)、これもまた、マスコミは罪を問われるどころか、責任を取ることすらないというのは、これでいいのか。
 足利事件の菅家氏は、検察に一生を台無しにされたのだった。マスコミはそれを得々と報道したものである。しかし、冤罪をつくるのは、検察だけでなく、マスコミも加担しているのではないか。松本サリン事件のときから、何の進歩もないではないか。

寝る前にポリーニを

今日も寝る前にポリーニのピアノを聴く。カール・ベームと合わせたベートーヴェンを聴いた後、ブーレーズの第二ソナタへ。浅田彰はこの演奏を、「最後のピアニストが最後のソナタを弾く」と表現したが、まさしく人跡絶えた、荒涼たる未踏の地だ。しかし、ブーレーズポリーニは微妙に違う。例えばブーレーズは、指揮者として、いわゆる古典が演奏できない。ポリーニはある意味、古典しか演奏しない。ブーレーズは理性のみであろうとするが、ポリーニでは、理性と情念はコインの表裏の関係にある。そこでは、あまりの完璧さがヒロイズムすら掻き立てる。「悲劇」すら感じられる。
 もう少し苦行をと、ベルクの叙情組曲を聴く(ラサールSQ)。これのどこが「叙情」か。ひたすら苦行だ。

Beethoven;Piano Cons.3 & 4

Beethoven;Piano Cons.3 & 4

ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章

ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章

新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲集

新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲集