丘の上のバカ

メディアで見た文章で源一郎さんについて書かれたものは、これまで殆どが悪口や非難、揶揄のそれしかなかったような気がする。なぜ多数のかしこい人たちは、源一郎さんをバカにするのか。本書の題名の「バカ」は単に源一郎さんのことだけではないが、確実に源一郎さんの自己評価でもある。かしこい人たちは、そういう物言いも「戦略」だと考えるのかも知れない。とそんなことに反応するのは、自分もいまに至って自分をつくづくバカだと思うようになったからだ。世の中は本当にかしこい人たちに溢れている。バカはこれまた確実に少数派である。たぶんかしこい人たちは、バカが喋るのが気にくわないのだろう。自分も沈黙したい気がする。といっても、この過疎ブログなど沈黙に等しいわけだが。
 ポストモダン哲学の最大の功績のひとつは、「自分の言葉だと思っているものはじつは、その殆どがじつは他人の言葉にすぎない」という事実を明らかにしたことであると思う。ってこれは僕の理解にすぎないから、テキトーです。源一郎さんがすごいし、その言葉が自分の琴線に触れる理由は、その事実を源一郎さんがわきまえているからだとも思える。とにかく自分なりに自分で考えてみることは、バカにもかしこい人にもまず不可能なくらいむずかしいことである。本書での源一郎さんの意見は確かに自分には納得・共感されるものがとても多いのだが、結局はそれが「正しい」からというより、自分の手持ちの材料で考え抜こうとするその姿勢にいちばん共感するのだと思う。それは必然的にまちがうのだが、我々バカはそうして考えるしかないのだ。本書は政治という難物を相手に、源一郎さんが徒手空拳で立ち向かったバカの記録なのだと思う。

まだ我々には青柳いづみこさんがいる

著者は優れたピアニストでもある物書きであり、この人にピアニストを語らせると誰も太刀打ちできない。素晴らしくもおもしろい文章を書かれる。著者の評論は、音楽の優れた専門家として演奏を正確に聴き取った上で、それを専門家に対して専門用語でもって書くのではなく、一般人にもよくわかる優れた文章で書かれるのが特徴だ。まるで音楽が聞こえてくるかのような文章で、こういう文章が書けた人はあの吉田秀和さんしか自分は知らないのである。それにしてもプロというのは凄いもので、たぶん僕などが聴く10倍以上の情報を聴き取っておられるのではないか。これは自己卑下ではなくて、たぶん僕は素人としてはふつうに音楽を聴けると思っているので、そこが素人とプロのちがいなのである。僕は音楽を聴くのが好きだが、これほど豊かに聴いておられるのを目の当たりにすると、ちょっとうらやましくなってしまうほどだ。そして、著者はきちんと意図を持って文章を書いておられる。本書で冒頭にポリーニアルゲリッチを取り上げ、次に内田光子バレンボイムに関する画期的な分析をおこない、そしてクラシック好きがバカにしがちなフジ子ヘミングまできっちり評論しておられる。それにしても、著者は悪口もイヤミも書かない。これには感心してしまう。どのような演奏に対しても、それを様々な角度からきっちり評価してしまうのであり、悪口やイヤミなどの入る隙間がないのである。基本的に姿勢がポジティヴなのだ。そして、ピアニストにしても自分たちふつうの音楽好きはどうしても一流の人ばかりを聴いてしまうが、著者は職業上様々なレヴェルのピアニストたちを聴き、その「苦労」をよく知っておられるので、評論の幅が広い。これも自分などには絶対に真似ができないところである。要するに、第一級の批評家なのだ。これからも自分が著者を読むことは、間違いのないところであろう。それから、ピアニストとしての著者ももう少し聴いてみたい。CD を一枚もっているだけなので。

物理学って楽しいよな、そうでしょう?

趣味で量子力学

趣味で量子力学

おお、ついに出たかという感じ。ちゃんと近所の本屋に置いてあってとっても嬉しかった。これで EMAN さんの「趣味」本も三冊目で慶賀に堪えない。これはサイト「EMAN の物理学」そのままの内容ではないので、EMAN さんの世界が好きな人は買っても損はないです。で、EMAN さんはじつはこの倍の厚さの分量を書きたかったそうです。でも、値段が高くなるので涙を呑んでこのページ数にしたそう。本書が売れれば続編が出せるかも知れないそうなので、ファンはちゃんと買いましょう。
 で、一気に通読した感想だが、やはり「量子力学はむずかしい」ということ。そりゃお前の頭が悪いせいだろうと云われるかも知れないが、まあそれは確かにそうなのだけれど、僕の言いたいことはそれとはちょっとちがう。数学的な点で云えば、本書のような入門レヴェルの内容ならば、僕だってだいたいはわかっているつもりである。それでも本書はむずかしいし、量子力学は理解するにむずかしいのだ。これが一般相対性理論ならば、これも確かにむずかしく、僕などにはそれを使って問題をバリバリ解いていく力はないけれども、それでも一般相対性理論のあらましは見えている感じがする。イメージとして、自分の理解はそんなに見当はずれではないことは確信しているのだ。量子力学には、そういう感じがもてない。何だか、どこをどう攻めていったらよいかわからないというか。
 本書に目を通しても、それを克服したという感じは自分にはまだない。しかし、ちょっと見えてきたところもある。こう言っては失礼だが、EMAN さんは抜群に切れる秀才ではない。であるからこそ却って、納得するまで自分で考えるということをされている。そこらあたりで見えてきたのだ。まだそれは上手く言語化できないが、とにかく量子力学は「公理論」的に考えているだけではダメなのだ。僕は、典型的な還元主義者、公理論的発想をするタイプだと思う。ここの攻め手からだけでは、どうも突破口は開けないらしい。
 いつもの EMAN さんの本と同じで、本書は抜群の秀才のための本ではない。どちらかというと、何とか量子力学を理解したいが、どの教科書を読んでもよくわからなかったというような、ある意味凡人の助けになるかも知れない本である。かと言って、アマチュアだけのための本でもない。いつもながら、自分は読んで楽しかった。しばらく本書をあちらこちらひっくり返すつもりである。EMAN さんが書きたいという続編も、期待して待ちたい。

僕の好きなシジン

雨過ぎて雲破れるところ

雨過ぎて雲破れるところ

最近読んでもっとも魅力的だった本。なんと云うか、佐々木さん(本書では「シジン」と呼ばれている)の文章には、僕は極めて惹きつけられるし、感動的である。これはどういう魅力なのだろう。シジンその人の魅力なのか、本書は嬬恋村での山小屋生活の記録なのであるが、ここにはどんどん人が集まってくる。それがまた、皆素晴らしく生き生きとしているし、子供たちもまわりで(ガンガン殻をやぶって)成長していく。皆の遊び方がまた本当に楽しそうだ。特に、自発的な音楽に溢れていて、プロも個人的に来るし、そのプロたちとの相乗効果で、山小屋仲間たちも(子供たちも)湧き上がるように音楽と交流している様子が感動的である。いやもう、自分の文章力のなさが残念である。こういうのが「生きる」ということなのではないか。
 佐々木幹郎という人は最近まで知らなかったが、僕にはこの人は「ちょっとちがう」ように思われる。どこか、生命の根源に触れている人ではないかと感じる。世の中には色んな「詩人」がいるが、こういう人こそ本当の詩人なのではないか。シジンの手にかかると、生きるというのは何と楽しいことか。手垢にまみれた言葉だが、僕はこの人はホンモノだと思っている。是非、詩集も読んでみたい。

『ぼくらの民主主義なんだぜ』確かに!

朝日新聞論壇時評の新書化。最近は新聞に目を通す時間がめっきり減ったが、源一郎さんの論壇時評は必ず読む。というか、母も源一郎さんの論壇時評のファンで、いつも読め読めというので、読み忘れたことはない。本書に収録された48篇も、ほぼすべて多少は覚えていた。しかし纏めて読んでいて、ウルッとなったところが幾つかあったし、心の中では殆ど号泣していた。何故なんだろう? 本書を読んでいて思われて仕方なかったのは、この国は殆どもうダメだということである。いや、それならいつも思っていることで、特別なことではない。感動させられるのは、源一郎さんは決して諦めないし、なにより政治や社会、経済を考えるにおいて、極めて柔軟で繊細な、新しい語り方を作り出していることである。とにかく、今までの言葉だけでは、日本を、世界を語るには不十分なのだ。自分はもう若者ではとっくになくなっているけれど、源一郎さんから見ればまだひよっこのような歳だろう。まだまだ諦めていてはいけないのだと思った。こんなロックな、パンクなジジイが頑張っているのだからね。こんなことを書いてもムダであろうと、今でも心はまだ萎えそうではあるが、自ら叱咤したいと思う。
 それにしても驚かされるのは、源一郎の言っていることはとても大切なことがテンコ盛りなくらいなのに、そこには「正義」の腐臭がまったく感じられないところだ。そこが例えば池澤夏樹とはちがって、源一郎さんが真の知識人である証拠だと思う。たとえ弱者のために「正義」を振りかざすのだとしても、その「正義」は必ず副作用があり、さらには必ず反転する。これは本当にむずかしい問題で、その罠から逃れられるには強靭な思考力が必要とされるのだが、源一郎さんはそれをほば達成しているようなのだ。
 本書はちょうど東日本大震災の直後から始まっているが、あれから日本はずっと大変な状態に陥っていて、今でも事態はどんどん悪化している。本書を読むとそれがよくわかる。経済はリフレ政策でよくなってきたが、本書で扱われている問題は殆ど何ひとつ解決していないようだ。つくづく思うが、経済がよくなったことはじつによいことだけれども、経済の好転がすべてを解決するわけではない。それどころか…、いや、やめておこう。しかし、どうして我々はこんなところまで来てしまったのか。
 子供たちが出て行ってしまった祝島で、棚田で米を作り続けている80歳のおじいさん。棚田は、おじいさんのおじいさんが子孫のために30年かけて石を積んで作り上げてきたものだ。「田んぼも、もとの原野へ還っていく」と、おじいさんは微笑んで、新しい苗代を作るのである。(p.39)

正確な「原子・原子核・原子力」の理解のために

これは万人の必読書なのではないか。本書は力学の概観という、とても根本的なところから始めてゆっくりと進み、最後は原子力にまで到達するという本である。中高生レヴェルの数式も多数使い、なるたけ論旨にギャップがでないように心がけて書かれているのがよくわかる。内容は、だいたい理系の大学初年度のレヴェルということになるが、これほどの密度と構成力のある講義ができる先生は、一流大学でも殆どいないことは明らかだ(科学それだけでなく、科学史の該博な知識があるのがすごい)。自分も知らないことが多かった。ただ、原子・原子核原子力の本当の説明はどうしても量子力学が必要なので、さすがにそれは断念され、量子力学なしで可能な限り、説明がされている*1。さても、本書は、科学の教科書として使うこともできるだろう。
 本書の特徴が出ているのは、第六章「原子核について」と第七章「原爆と原発」であろう。ここは特に自分の知らないことが多かった。最終的な結論は、自分の読み取ったところでは、原子力発電は科学的・論理的整合性から見て、とても許容できる技術ではないということである。そのロジックは、自分の力では要約不可能なので、実際にお読み頂きたい。著者の経歴から政治的バイアスが掛かっているだろうと思う向きもあるかも知れないが、ならば本書を論理的に反駁して頂きたい。しかし、(特に日本の)政治は科学や論理的整合性というものとは無縁なので、これからも原発は使われていくのであろうか。よく「原発国益になる」という人がいるが、僕はその命題が成立しないことを、今回の読書で確信した。その根拠として特に挙げておくと、原発燃料の連鎖核分裂反応は、原理的に止めることができないのである。本書には書いていないが、原発で一見核分裂反応の「制御」のように思われるのは、ただ炭素によって中性子を吸収しているだけで、核分裂の連鎖反応を止めているわけではない。まさしく「消せない火」なのだ*2。また、これは知らなかったが、原発からの排水は高温であるがゆえに沿岸漁業と排他的であり、さらに排水の中には、「基準値」は下回るように稀釈されてはいるが*3、れっきとした放射性物質が堂々と放出されているのである。そしてその「基準値」というものには、合理的な根拠がないのだ。
 これ以上は詳述しない。著者は恐らくイデオロギー的な立場をもっておられるだろうが(そのことの何が問題だろう)、本書はイデオロギーで書かれているのではなく、著者はまず科学者として書いている。国益というものが仮に重要であるのなら、本書こそ国益のために書かれているとも断言できる*4。さても、無知というものが如何に恐ろしいか、日本人は原発事故で体験したはずなのに、このままではまたそのうち身を以て知ることになるだろう。

*1:というのは正確ではないかも知れない。量子力学の体系は解説されていないが、その果実は説明に取り入れられている。特に前期量子論

*2:福島第一原発でなかなか核燃料を撤去できない理由も、そこにある。また、同じ原理的帰結として、原子力発電は火力発電などとちがい、常にフル稼働させるしかない。電気が余っても、原発の発電レヴェルを下げることはできないのである。それにしても、福島第一原発の「廃炉」など、技術的に見て実際に可能なのだろうか。炉心から溶け落ちた(メルトダウンした)核燃料は、反応を止めるわけではない。「廃炉」が技術的に可能というならば、その知識は公開され報道されるべきなのではないか。

*3:「基準値」とは割合の問題であり、絶対量はまったく無視されている。

*4:しかし、「国益」とはいったい何なのだろうか。第二次世界大戦で日本人が一千万人以上のアジア人を殺した(遠藤三郎)のも「国益」のためだったし、アメリカが日本に原爆を落としたのも「国益」のためであった。

本書の世界は本当に「ディストピア」なのか?

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

旧訳をかつて読んでいるが、中身をほとんど忘れていたので楽しめた。これはまたおもしろい小説ですね。一応「ディストピア(アンチ・ユートピア)」小説とされるが、一筋縄ではいかない。というのは、このディストピアユートピアと殆ど見分けがつかないのだ。徹底的に清潔で楽しく、欲望は満たされ、誰もが幸福に包まれた社会。これこそ人類の目標だと考える人間がいてもまったくおかしくないし、現実に世界はその方向を向いているのではないか。確かにここでは、人間のすべてが管理されている。しかし、不幸は「ソーマ」を飲めば化学的に解消されるし、セックスも自由、それなのに結婚をする必要はなく、何より一切の戦争がない。本書第二の主人公である「野蛮人」ジョンはこの社会を拒絶するが、最終的には自殺に追い込まれてしまう。この社会をリジェクトするには、相当の思想と覚悟が必要だろう。結局、本書の提起する問題は、我々には自由が必要なのかというところにあるからだ。実際、我々の現実を深く考えてみれば、我々には果して自由があるのかどうか、これは議論の余地があるだろう。我々は、何かに動かされているだけなのではないのか。ラカンは「我々の欲望は他者の欲望である」と言ったが、まさしくそれは真実であろう。本書の議論が、深いところに届いている所以である。
 それにしても、本書の世界で戦争がなくなっているのは、興味深いことである。ひょんなことを考える。二十一世紀になっても戦争が絶えないのは、我々が自由を求めるせいなのではないかと。我々は戦うとき、究極の自由を感じるのではないのかと。しかし、やはり自分はこれは認められないな。日本にも戦争を体験した人たちがまだわずかに生き残っているが、戦争の悲惨さは論じるまでもないことである。怖いのは、実際に戦争を体験した人たちがいなくなって以降だ。今ですら、戦争をしたい奴らが大きな顔をするようになってきている。そのうち、どういうことになるのであろうか。