まさしくも「AIの衝撃」!

これはじつに刺激的だった。一気に読み切ってしまった。AIとは「人工知能」のことであるが、近年における急激なAIの発展について本書はレポートしている。我々にわかりやすいのは、プロ棋士すら打ち負かすようになった将棋ソフトだろう。また、自動車の自動運転なども、このところよく言及される。しかし、我々にはわかりにくいところでも、AIの発展は進んでいる。本書で述べられるところでは、いわゆる「ビッグ・データ」の解析にAIを使う技術である。一例を挙げれば、アマゾンで何かを検索したりするだけで、お勧めの商品を推薦してくるアレである。グーグルなどは、我々のあらゆる情報活動を収集していて、それを解析しようとしている(だから、僕はブラウザはグーグルの Chrome を使っているが、グーグルによる情報の収集は設定で認めていない。しかし、実際はどうなっているかわからないが)。
 AIの発展により、これまで人間にしか行えなかったことが機械化されようとしている。将棋の例は既に挙げたが、自動翻訳から技術知の自動化まで、いや作曲などの芸術活動ですら、AI化されつつある。「ディープ・ラーニング」というタームがあって、最近のAIの学習に関しては、その結果が人間の予測を超えるようなシステムが現実化してきている。プロ棋士の予想を超える好手を出力する将棋ソフトなど、その典型だ。我々は、既にコンピュータの出力が理解できなくなってきている。
 もともとAIの発展は、じつは人間の脳をそのまま模してなされたものではない。それは一部だけのことで、基本的には数学理論である。しかし、最近では脳の模倣も進み、ニューロンの活動をハードウェア的に模倣するチップまで現実化しようとしている。これが何を生み出すかは、まだまったくわかっていないが。
 日本はとてもAIの先進国とは云えないらしい。本書で頻出するのはグーグルを筆頭に、マイクロソフトフェイスブックであり、人名もほぼ外国人の名で占められている。日本の学生は優秀であるらしいが、伸び悩むようだ。自分にはこれはよくわかる。AIなどの未知の分野の研究には、ドン・キホーテ的な強烈な世界観の先導が必要だからだ。「哲学」が必要だと云ってもいい。そこは日本人の苦手なところで、どうしても技術論以上のところへ行かない。これは国民性と言っていいだろう。もちろん、日本人にAI研究は不可能だと言いたいわけではない。このような思い込みを打破してくれる研究者の登場が期待される。
 (なお、日本の企業に関しては、研究者以上に絶望的であるようだ。もちろん著者はそんなことは断言していないが、危機感は相当に感じられる。恐らく、日本の企業には、危機感すらあるまい。)
 最後に。本書ではさほど強調されていないが、AIが革命をもたらすのは、恐らく(いや、まちがいなく)軍事分野である。いま軍事分野でいちばん課題になっているのが、戦争(戦闘)の無人化であり、AIの技術はまさしくそれにピンポイントであるからだ。実際、ドローンと小火器を組み合わせたような自動戦闘装置なら、現在の技術で簡単に作れるだろう(アニメの「攻殻機動隊」でバトーが対峙したような)。自動殺戮機械の登場は、近い未来のことであると考えて間違いないだろう。これが戦争をどう変えるのか、そしてそれは、人類の有り様にまで関ってくるかも知れない。念頭に置いておいて損はないことだと思う。
AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

『存在の耐えられない軽さ』以上のミラン・クンデラの傑作

冗談 (岩波文庫)

冗談 (岩波文庫)

西永良成訳。まず書いておくと、最近ではこれほど貪るように読み、途中の中断すら惜しいほど惹き込まれた本はない。本書はクンデラの処女作であり、個人的には『存在の耐えられない軽さ』の上に置きたい。題名である「冗談」とは、共産主義下のチェコで、ある青年(主人公のルドヴィークである)がガールフレンドに「冗談」で共産主義を揶揄するような葉書を送ったところ、それが元で当局に連行され、軍の強制労働に従事することになることから来ている。物語はそのルドヴィークの章と、彼に関係する人物の視点から見た章が交互になっている。自分がいちばん没入したのは、第三章のルドヴィークの収容所でのエピソードであり、ここで不思議な女性であり、本書でいちばん謎めいた登場人物であるルツィエとの「恋愛」が語られる。ルツィエは意識の薄ぼんやりとしたような、おどおどすらした女性なのであるが、他ではインテリの鼻持ちならなさが時として出るルドヴィークであるけれども、ルツィエとの関係ではそこに本当の「愛」があるような感じで、不思議な雰囲気が出ており、何故かわからないが自分はとても惹かれた。自分でも何にこれほど惹かれるかよくわからず、恐らくはここに自分の精神分析学的な無意識が出ているのかも知れない。
 その他の章も読み応えは充分であり、その体験をくぐり抜けたルドヴィークは、自分を陥れたゼマーネクに復讐しようとするのであるが、あとは読んでのお楽しみということにしたい。本書には自分にはよくわからないところも少なくなく、特にヤロスラフと「王様騎行」のエピソードは、本書の中で他と遊離している感がある。また、ルツィエとの再会も、プロットからすれば殆ど意味がない。けれども、それを除けば、小説の謎も失われてしまうようでもあるし、自分には何とも言えないのだが。なお、本書は1968年のソ連軍のチェコ侵攻以前のエピソードであり、ソ連軍の侵攻は、本書を政治的文脈で読むことを時代に強要してしまったところがあるらしい。しかし自分は、本書の文学的価値を強調したいと思う。これは本物の小説であると確信している。
 蛇足であるが、本書は著者の手が全面的に入った、最後のフランス語版から翻訳されている。日本語として見る限り、立派な翻訳であると思う。岩波文庫に相応しい古典であろう。

(陳腐な表現だが)笙野頼子は過激だ!

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

三部作完結。本書を読んでいて、結局自分は「おんたこ」も「ドイデ」(マルクスの『ドイツ・イデオロギー』)も、フォイエルバッハも「金毘羅」も、ひっくるめてどうでもいいのだなと思う。では、笙野頼子は読むに値しないのか。いや、全然そんなことはない。本三部作に限らず、結局笙野頼子のキモは、あの奇妙な言語感覚にあるような気がする。それは、正確に云おうとするとむずかしい。例えば、著者の文章は「妄想」だと云われることがあるが、これはたぶんちがう。著者の頭が狂っていて、妄想を書き連ねているのではないのだ。むしろ、正気からそのようなものに限りなく近づいていくため、著者の特異な「言語感覚」、あるいは「言語操作法」があるのではないか。本書では哲学の用語が頻出するが、それはむしろ使われているだけだ。なつかしいポモ(ポスト・モダン)の用語を使えば、著者はシニフィアンを「妄想的に」使って、シニフィエをどんどん希薄化させていくのである。だから、著者の紡ぎだす「妄想」に、妄想本来のもつロジック(妄想にもロジックはある)を読み込んではいけないのではないか。それは著者の仕掛けた地雷のようなものであり、踏んづけて爆死した馬鹿者を笑うのは著者なのである。ただ、そうしてカモフラージュはされているが、一見ルサンチマンにドライブされていてじつは意図的、のように見える著者のそのルサンチマンは、それこそ実際に著者が感じているルサンチマンに他ならないのだろうとは思う。もちろんそれは、文学としてむしろ正統的であろうし、何も悪いことではない。
 別の言い方をしてみると、著者の文学でいちばん危険なところは、その言葉が立ち上がってくるその地点の過激性であろう。ここから言葉が出てくるとき、著者は「発狂」スレスレになると云ってもいい。それは、言葉の意味(シニフィエ)から、近づいていくことはむずかしい。むしろ、音楽を聴くように、それを「体感」するように、読んでみる必要がある。
 ちなみに、本書の小説部分はいま書いたとおりであるが、併録された「種明かし」みたいな文章は、じつに「フツー」の文章なので間違ってはいけない。これは著者が「頭でわかって」書いている文章である。小説部分の「深さ」はここにはないので、それは注意すべきであろう。ちなみに、自分はこの併録された文章をおもしろくは読むけれど、特に感心もしないことは断っておこう。著者が柄谷行人吉本隆明を批判し、東浩紀を罵倒しようが、どうでもいいことである。その意味で、かかる著者の(「文学的」)努力は、特に同情できない。著者のすごいところは、こんなところにはないのである。
 しかしこの三部作、どうして文庫化されないのか? これはおかしくないか。

平和構築には事実を知れ

キャッチーな題なのが残念である。著者の伊勢崎賢治さんのことを知っていなければ、自分も手に取らなかっただろう。伊勢崎さんは世界各地で武力紛争の武装解除に携わる一方で、東京外国語大学大学院で「平和構築・紛争予防講座」を教えておられる方である。特に日本政府特別代表としてアフガニスタンにおける武装解除を成功させたのは、大きな仕事であった。自嘲も込めて、「紛争屋」と自称されているくらい、世界各地での紛争の現場に詳しい。本書はその伊勢崎氏が、日本の集団的自衛権の問題その他に対し、持論を述べたものだ。集団的自衛権に関しては、政府の挙げた事例をすべて論破しているので、実際にお読み頂きたいが、自分はその他にも、教えられるところが大変に多かった。特に印象に残ったのは、安倍首相が著書で「軍事同盟というのは血の同盟であって、日本人も血を流さなければアメリカと対等な関係にはなれない」と言っているそうで(p.112)、これは首相の(日本人らしい)無意識を思わず出してしまっているところであろう。伊勢崎さんは、このような「血の絆」の如きウェットな感覚は、アメリカの方にはまったくないと指摘しているが、まったくそのとおりであろう。アメリカとしては、自国の利益になるかどうかだけが問題なのであって、日本がアメリカ(軍)にどうしても必要だ(例えば、第七艦隊の母港は事実上日本にある)ということだけが事実なのであり、余計な感情は理解できないものである。自分は、日本人のウェットなところは悪いことばかりではないと思うが、国際関係には有害無益なものだとも思う。
 本書は徹底的に事実の書である。イデオロギー(右翼とか左翼とか)はまったく関係がない。とにかく日本人は、頭の中だけで考えられた(マスコミ、ネット等の垂れ流す)妄想だけに頼らないで、まず事実を知るべきだろう。例えば伊勢崎さんは、憲法第九条はいずれ改正されねばならないのかも知れないが、今のところ、紛争処理などに関して現実的に役に立つ(それは伊勢崎さんの体験である)ことを指摘している。そしてまた、日本は中東などでも「美しく誤解」されていて、これは失うには惜しい日本の財産になっているそうだ(それがなければ、アフガニスタンにおける武装解除の成功はあり得なかったそうである)。
 それにしても、自分はイデオロギー的には左翼的なのであろうが、自衛隊は本当によくやっていると思う。驚くべきことに、自衛隊には「軍法」がないので、PKOで海外に派遣されても、隊員たちの自覚だけでやっているそうである。実際に何をやっているかというと、危険地帯でわざわざ目立つ格好をして、「日本の軍隊は人を殺しませんよ」ということをアピールしているというのだ。戦闘行為とはちがう、これはこれで大変な重圧であろう。自衛隊員は戦闘行為では死んでいないが、PKO活動から帰ってきた隊員たちには、相当の自殺者が出ているという。伊勢崎さんによれば、現在のPKO活動はどこでも非常に危険なものになっており、自衛隊が戦闘に巻き込まれていないのは幸運だという。
 最近の中国との緊張関係で云えば、戦争になっても失うものは多くて尖閣諸島くらいのものであるし、それよりも、叡智を絞れば平和的に解決することはきっと可能だと、過去の各国の紛争を解説しながら述べる。キーワードは「ソフトボーダー」で、当事者双方が「痛み分け」を承認することにより、紛争を終わらせるやり方である。現実的には、それしか方法はない。事実としては、過去中国は尖閣諸島のソフトボーダー化を事実上容認してきたのであり、日本の民主党政権が無知によりそれを覆してしまったわけだが。
 とにかく我々に足りないのは、まず事実を知ることであろう。本書は、きっとその目的に叶うものだと信じている。

ロボット研究はここまできているのか

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

「ロボットは心を持てるか」というよくある命題から始まるが、あまりそれに拘る必要はない。第二章「自ら概念を獲得するロボット」というのは、センサー群による複数の閉じた入力(マルチモーダルな情報)から、クラスタリング(一種の計算)によってロボットが「概念」を創造するということを解説していて、とても刺激的かつ興奮させられる。敢て場違いな言い方をすれば、コンピュータに「イデア」が作れるということになるのではないかと思った。ほぼ「無」から、カテゴリーを作り上げることを可能にしている。視覚や聴覚、触覚などの情報を使ってですよ。これはおもしろい。
 第三章「自ら言葉を学ぶ知能」は、ある意味第二章の延長線上にあって、予備知識なしに言語分析を可能にするシステムを扱っている。例えば、「不思議の国のアリス」の原文から単語の区切りの空白を抜いたものを与えて、分節化をほぼ可能にしている。これもすごい。これは、第四章「潜んでいる二重分節構造」につながり、言語の二重分節構造が、視覚などにも応用できるのではないかというもので、最初はミスリードかとも思われたが、一定の成果を収めているのには驚かされる。
 第五章「ロボットは共感して対話する」というので、人間の曖昧さをロボットが察知するだけでなく、ロボットに曖昧に指示させて、それを人間が類推する、なんてことをやっているのもおもしろい。第六章「構成論的アプローチ」と第七章「記号創発システム論」は一種の弁明で、この著者らが研究している分野は、他からよほど「科学ではない」と云われているらしく、それらに対する弁明・反論になっている。まあなくてもよい部分かも知れないが、こうした科学論は自分は嫌いではない。まあ、本当に研究自体がおもしろいんだから、いいのではないの?
 しかし、知らないことばかりで、勉強になったし、なにしろ刺激的だった。実際のモデル理論などもわかるともっと面白いのだろうが、まあそこまでできれば研究者になってしまうから、自分にはむずかしいだろうな。いや、こういうぶっ飛んだのが出てきて、若いのにすごいです。若い研究者ばんざい!

山本義隆三部作の完成を言祝ぐ

ようやく全巻を読み終えた。これで、『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』に続いて、三部作が完結した。それにしても、厖大な仕事であり、それも科学史として第一級のものであることは疑いない。この分野の本で、これほどまでに総合的であり、レヴェルの高いものは、欧米にもあるまいと思われるほどである。よくも日本にいてここまでやれたものだ。恐るべき知的膂力であると云う以外にない。
 第三巻の本書では、いよいよティコとケプラーの登場であり、読んでいて興奮させられた。ティコの観測技術の高さをいったい何がもたらしたのか、技術的なことまでバッチリ書かれているし、ケプラーに至っては、ケプラーの思考過程にまで踏み込み、現代的な数学表現まで与えてある。これを読むと、科学史上画期的な、惑星の軌道が楕円であることの発見(ケプラーの第一法則)には、エカントの物理的解釈がブレイクスルーになっていることがわかり、驚かされる。なるほど、従来の天文学でわかりにくかったエカントの導入に、かくして根拠を与えることが重要だったとは、後知恵ではよくわかるのだが。(ただし、巻末の数学的補遺も含め、数学的には高校数学をマスターしていればそれ以上の知識は必要ないが、ケプラーの思考過程は難解なので、自分もざっと目を通したに過ぎないことは断っておく。)そして、仮説を出して、実際の定量的な観測でそれを確認するという、まさしく物理学の誕生が、ここケプラーの段階で始まったことが宣言されるのだ。著者の言うとおり、影響が大きかったのは(実験を導入した)ガリレオの存在であることは、今でも変わりがないが、物理学の誕生に関するケプラーの貢献は、それでも画期的であったわけである。
 なお、物理学一筋に見える著者の姿勢だが、本書を読んでいれば、著者の幅広い読書範囲は明らかではあるまいか。文化的背景に関する理解も、明示的でないだけで、自分はしばしば驚嘆させられた。自然と「教養」が滲み出ているのだ。幅広い読書を嘲笑すらする最近の書き手にはない、深い文化理解が見られる。著者は誇示しないが、例えば古典だって、文学すらも、著者は幅広く読んでいるわけですよ。それでこそ、第一級の思考力が引き立つのである。皆さん、是非この三部作を読んでください。

大江健三郎と「想像力」

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

新しい人よ眼ざめよ (講談社文庫)

世には色々な大江論があるだろうが(自分はまったく読んでいないけれど)、自分には大江さんは不思議な小説家だ。文学音痴が云うのだから読み飛ばして欲しいが、自分には大江さんはめちゃめちゃ面白いのだけれど、何が面白いのか、言うことはとてもむずかしい。前にも書いたように、自分の無意識を面白がらせるとしか、云いようのないところがある。本書を読んでそれに敢て付け加えれば、それは「現代における想像力」の問題なのだと思う。imagination は image が元になっている語だし、「想像力」には「像」という字が入っているところで、そして今は「イメージ」というのは評判が悪い。「イメージ批判」というのは今では「知」(という言い方は時代遅れか)の最も初歩的な課題だし、その意義もわかるけれど、それでも「想像力」は重要であると言いたい。それはむしろ、「イメージ」とはあまり関係がなく、知性に関係するものである。大江健三郎の小説に紋切り型のイメージがないとは云えないかもしれないけれど、それでも氏の想像力は非凡だと確信する。そうでなくて、現代にウィリアム・ブレイクを対峙させることができるだろうか。本書は、障害を抱えた氏の長男「イーヨー」さんに関する連作短篇集であり、家族の物語でもあって、氏の家族は困難に打ち当たることはたくさんあるが、決して特別な家族ではなく、敢て云えば我々と同じで、それゆえに感動的だ。本書ではブレイクの言葉が(時には原語を交えて)重要な役割りを果たしているが、ブレイクは決して我々凡人に関係のない詩人ではないことを、本書は教えてくれるようである。
 なお、どうでもいいことだが、鶴見俊輔氏の文庫解説は、文章を書くことを生業とされている方のものとしてどうなのだろうかと思った。氏は大変に頭のいい方だとは思うけれど、プロとしてこの程度の文章で許されるのであろうか。まあ、自分などがいうのも何であるが。