忘れられたガザ

ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

本書を読んでいて二度ほどこみ上げてくるものがあったが、それについては書くまい。二〇一四年夏のガザ攻撃に関するルポには、ジワジワと忍び寄ってくるような恐怖、正確にはむしろ驚きを感じた。本書は殺戮に満ちているが、それまでは殺すのは「イスラエル人兵士」たちだった。彼らの殆どはパレスチナ人に敵意を抱いていたが、それでも自分の手によって殺すのだった。だからその中には、その行為を疑問に思う者が(圧倒的少数にせよ)出てくるのであり、実際に著者はそのようなイスラエル人兵士たちに接触を試みている。しかし、二〇一四年夏の攻撃では、生身のイスラエル人兵士の姿がまったくない。ハイテク兵器による、遠隔地からの「効果的な」殺戮のみがあり、肉体の接触がない。このような「戦争」になり、事態は無意識レヴェルで大きく変ったように思えて仕方がない。イスラエルでは(市民レヴェルでも)人を殺しているという感覚が希薄化し、またガザですら、敵意以上に無気力がすべてを覆っていったように見える。リアルな敵の見えない、ゲームのような殺戮、また家畜のように無気力に殺されるということ…。人間というものはここまで出来てしまうものだということがわかる。本書の題名はポジティヴなものであるが、これは著者の「こうであるべき筈だ」という思い込みの、強いられた「楽観」であろう。著者の伝えるガザにどのような希望がひとかけらでもあるのか、自分にはまったく理解できないし、すでに国際的な注目は IS を中心とする情勢にあって、世界はガザを忘れているように見える。これが人間の所業なのだ。