大いなる罵倒の書

これは、批判の書というよりは、大いなる罵倒の書である。だから、なかなか読み始めるまで手に取り難かったし、読み始めても初めは読み進めるのに難航したりしたが、段々と慣れてくると、次第に吉本隆明の思考法とでもいうものがおぼろげに判ってくるようになってきたと思う。そこで痛感させられたのは、思想の全体性とでもいうものが必要だということだった。個々の事例はなんとかうまく捌けても、全体性のない思想は必ず間違えるということ。しかし、考え込んでしまう。自分が知識人であるともなかなか思えず、全体性のある思想など依然獲得できない自分など、一体どうしたら良いのであろうか。日々の仕事の中から、というのは一つの答えであろうが、けれども、日々の仕事の中から普遍性を取り出し得るような仕事をしている者が、今どれだけ存在するというのだろう。だれでもできる、取替えのきく仕事でない者は仕合せであろう。やはり、知識人であろうがなかろうが、勉強してそれなりの全体性を目指す以外、ありえないのだと思う。例えばマルチチュードなどというものに、希望を託す気など起きないのだ。
 つい中身のことは書かなかったが、ちょっとだけ述べると、第三巻では自分が追いかけてきた柄谷行人浅田彰が罵倒されているが、これは大変に興味深い仕方だった。少なくとも2ちゃんねるなどで見られる嫌らしい罵倒とは(当り前だが)まったく質のちがうものである。確かに、現在の柄谷や浅田の現状を予告するような批判になっていると思われた。それにしても、柄谷はいま、もはや言うべきことが何もなくなってしまったのだろうか?