鈴木謙介を読んで少しサブカルを思う

雑多な本であり、雑多な感想を抱いたが、そのすべてを書こうとするのは無意味だろう。
 まず、社会学的な知見を披瀝した本としては、さほど言いたいことはない。この本の主題のひとつとして、日本の論壇における「新自由主義」なる概念の混乱の腑分けがあるが、個人的にはそんなことはどうでもよい。自分としてはベタに、小泉政権に始まる「新自由主義」なるものは、自分の生活を苦しくするものとして、また弱者から毟り取るものとして、かつても今も、単に否定すべきものであるし、それ以上のものではない。
 「ゲーム」の「ルールが変わってしまった」、ということについて。著者も混乱しているように見える。「能力主義」で「自由競争」、これはもう仕方がない、世界がこうなっているのだから、これで生きていくしかない、というのが著者の見解のようだが、それもまた「ルール」になっているのであろう。「制度」がこうなっている、というが、「制度」というのは外部にあるだけではない、むしろ我々の内部にこそ「制度」はあるのだ。我々の内にある「制度」をまず解体していくというのは不可能事ではない。社会が悪い、オレは悪くない、確かにそうかもしれない。しかし、「世界」と向き合っているのは、まさしく「自分」なのだ。そう、「世界」は確かに変えられる筈ではないか? 著者は(そして恐らくこの本の読者の多くも)まだ若いではないか。何のために若さはあるのだ。サブカルでまったりもよいであろう。しかし、本当にそれしかやることはないのだろうか。「動物化」と言ってシニックになっているだけでは、それこそ「家畜」の生であろう。
 では、どうするのか、だって? 政府とか社会とか、セーフティ・ネットだとか、いきなり大きいことを考えないほうがいいと思う。世界中のエリートたちが考えても、まだ正解はないのだ。まず自分の足元を見つめることから、自分たちがいかに(広義の)「制度」に捕らわれているかを知ることから、始めるしかないと思う。そして、勉強も。フーコーは、自分の著書が、何かと戦うときの武器のようなものとして使われることを望む、と言ったが、我々も、そのような武器を痛切に必要としているのだ。
 ところで、今の時代、そのような「武器」は果してサブカル(と社会学)に生まれるのだろうか。もしそうなら、そして著者もそれを望んでいるのだろうが、サブカルにも(社会学にも)それなりの意義があるだろう。時は流れていくのだから。

追記

後から読んでみると、説教調でみっともないな。まあ身も蓋もないことを言えば、本書は自分のあまり好きになれない型の社会学の書になっている。とにかく頭でっかちなのだ。だから、最後のところで著者の恥ずかしい感情生活が露頭するのも、なんとも幼稚で同情しかねるのである。まずそこのところからなんとかしろよ、と言いたくなる。まがりなりにも、我々はニーチェ以降なのではなかったのか。