これが現象学なのか
- 作者: 谷徹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/11/15
- メディア: 新書
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- カントを根本的に否定するのは不可能だと言うこと。本書に拠る限り、フッサールのカント批判は、カントの方が大筋において正しいように思われる。実際、フッサールは晩年にはカントをかなり受け入れているように見える。
- 諸学に対する数学の特異性、異質性を認めること。形而上学を数学のように厳密な学にすることは、そもそも不可能に思われる。形而上学に数学を導入するには、これもカントのやり方が根源的である。
- 今ではすっかり評判の悪くなったベルクソンの試みが、哲学を補完するように思われること。しかし、これはうまく語るのがむつかしい。ベルクソンはどうしても、オカルトのようにも見えてしまうから。小林秀雄もうまく語れず、「感想」を本にしなかった。
漫談になるが、フッサールは独我論者といわれることも多いけれども、むしろ自我の形而上学者というか、とにかく読んでいて、西欧人の自我の強さが強く出た哲学者だと思わずにはいられない。我々もフッサールを理解することは勿論相応に出来るが、自分たちの実感として、こういう哲学は構築できないのではないか。日本人の哲学者を見ると、和辻哲郎などは秀才で、西洋哲学を使ってみせるなどお手のものだったと思われるが、その和辻の哲学が、間主観性を基に構築されていることなど、典型的だと思う。だから、日本人で「他者」を語っても、本当に他者と出会うことは、なかなかできない。それは、スケールの小さいなりに、自分を省みても、そうなのだろうと思う。しかし、これほど西洋を導入しながら、近年では却って統合失調症は軽症化し、その代りに「解離」が一種のジャーゴンにすらなっている現状は、どういうものなのだろう。我々のちっぽけな自我は、一体どうなってしまったのだろうか。