「認識論的切断」以前としての向井敏

表現とは何か

表現とは何か

浅田彰のいう(アルチュセールの元の意味ではなく)、「認識論的切断」以前の本である。それだから直ちにいけないという訳ではないのだけれども、平成五年刊というのが驚かれるほど、古臭いことは否めない。またもや山崎正和であり、丸谷才一かと思う。自家中毒を起こしそうだ。自分は一時期、丸谷才一の引力圏にある人々をよく読んでいたので知っているが、この人らには、「イデオロギー色のあるものを一切認めない」というイデオロギーがあるのではないか*1。こういうやり方では、イデオロギーを殺すことはできないのである。まあもちろん、イデオロギーを免れることなど、ほとんど不可能ではあるけれども。
 しかし、と思う。若い人らでこういうものを読んだことがないのなら、一度は読んでおいたほうがよいのかも知れない、と。ここにあるのは今の時代には閑文字だろうが、確かに、直ちに空疎ばかりではない。今や近代文学は死滅したが、近代文学の中で息をしてきた人たちの存在を、忘れてしまってよいものではないだろう。例えば柄谷行人などは今でも読み得る存在だが(いや、柄谷も古い、などと云わないでほしい)、柄谷もこういう中から出てきた批評家なのである。柄谷自身は、丸谷の引力圏にある存在など、ある意味では軽蔑しているのかもしれないけれども、やはりそうなのである。「近代」をすっ飛ばして、「徴候的」な文章を垂れ流しているようなのばかりになると、それはそれで、自家中毒を起こしそうな状況になっているのではあるまいか。

*1:中沢新一はこう書いている。「イデオロギーには、すくなくとも、いまある世界のあり方を否定して、そこに見なれないもの、未知のものを出現させようとする、よびかけがこめられていた。八〇年代は、イデオロギーの幻想機能といっしょに、それがもっていた、現実をおおうベールのむこう側に出ていこうとする、実存のよびかけまで、たらいの水もろとも、流しさってしまったのだ。」