明治の元勲伝としての学術書

逆賊と元勲の明治 (講談社学術文庫)

逆賊と元勲の明治 (講談社学術文庫)

意外にと云ったら失礼になるだろうが、予想もしない面白さだった。題も内容解説もよくないのではないか。学術的な歴史書であるのにもかかわらず(?)、日本のそれではめずらしく、人物の(政治的)姿がくっきりと浮かび上がってくる好著だ。西郷隆盛大久保利通桂小五郎伊藤博文山県有朋ら、明治の大物たちと、明治天皇。この困難な時代を切り開いていった者たちが何を考え、どう行動したかを知ってみると、頭の下がるような思いがする。やはり明治は、語弊があるかも知れないが、「面白い」時代だったと云いたい。本書でも度々引かれている、『ベルツの日記』*1でも読み直したらという気もした。繰り返すが、小説ではなく学術書で、歴史上の人物にスポットを当てて書かれた本は、日本では滅多にないのだ。そして、それは紋切り型のイメージをなぞったものではなく、人物たちは意外な貌を見せている。とりわけ対照的な、伊藤と山県。
伊藤博文

伊藤の本領は観念的な「憂国の志士」にあるのではなくて、実際的な「周旋家」としての才幹にあった。(p.94)
状況に応じた頭の切りかえのすばやさと、知恵才覚に富んだ点は、終生変わらぬ伊藤の身上であった。(p.97)

一方の山県有朋

[松下村塾に]入門間もないある日、山県は松蔭から「君は死することが出来るか」と問われたことがあった。これに対し山県は、即答を避けて一日の猶予を乞い、一晩熟慮黙考した後、翌日あらためて松下村塾に至り、「私は国家の為ならば死することが出来ます」と答えたという。おそらく伊藤だったなら、打てば響くようにその場で答えたであろう。これは、若さに似合わぬ山県の慎重な性格をよくあらわすエピソードといえよう。(p.95)
酔っても決して我を忘れることなく、「和して同ぜず」というのが、山県の特色だったようである。(p.95)

二人はライバルだったとも云えるが、伊藤が暗殺されたあと、山県は伊藤を悼んで「かたりあひて尽くしし人は先だちぬ、今より後の世をいかにせむ」の歌を詠んでいるという。

*1:本書二四〇頁によれば、日露戦争に至る過程で、戦争を猛烈に煽る日本の新聞に対し、ベルツはこんなことを日記に書いているという。「しかしながら、日本の新聞だけは全く特別だ! 日本人は、その祖国にとってこれら新聞紙がいかに災いであるかを、必ず悟ることだろう、これら新聞紙は、自国を完全に歪めた形で、外部に伝えているからである。」太平洋戦争でもそれは同じことであったし、それは現在でも大同小異である。