永井均と「世界の開闢」

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

本書でも永井均はやはり面白い。永井にとり、哲学は文字通り骨絡みになっていて、ほとんど病気である。哲学がまったく「自分」にとっての問題として考察される。だから、迫力がある。
 で、本書だが、永井の他著ほどの出来ではないかも知れない。例えば本書では「神」が頻出するが、自分には「全能の神」という問題の立て方はあまり興味がない。本書でいうと、自分はライプニッツには同情がなく、カントに徹底的に惹かれる。だから、「カント的問題にライプニッツ的問題を接続する」(p.185)というようなことにも、あまり興味がないのである。
 しかし、本書は決してつまらなくない。それは、時間の問題にとことん拘っているからである。もっとも、著者の問題の立て方と自分とでは、だいぶ異なりはする。自分は、過去や未来は現在においてしか考えられないと思っているが、それと、時間が「流れる」ことがどう接続されるか、というのが問題である。(これはあからさまにベルクソン的であろう。)そしてさらに、「物理学的な時間」というものもある。これはカント的に、我々の基本的な認識機能である「因果性の把握」によって、(認識論的には)生じるものだと考えられそうではあるが。しかし、それが時間の物理的実在性に矛盾しないことは、自明ではない。思わず個人的なことを書いたが、これは著者の問題意識に、どこかでリンクしているように思える。
 あと気になるのは、著者は表象(という語は使っていないが)を自明なものと見做しているように見えるが、これが知覚系によって再構成されたものだということは、押さえておかねばならぬのではないか。神の介入によって、現実だけごそっと変わるとか、脳だけ変わって表象が安定するとかは、あり得ないのではないか。それから、よく哲学書では「培養液の中の脳」の問題が(本書に限らず)出てくるが、我々の脳の存在形態というのは、まさしく「培養液の中の脳」に他ならないのではないか。
 蛇足。著者は冒頭でこう述べている。「人によって外界からの刺激を処理する速度がひじょうに違っているとしよう。目の前にカラスが飛んできたとき、ある特殊な人には即座にそれが見え『カラスが飛んできた』と思うのだが、別の人には数分、さらにまた別の人には数時間、遅れてカラスが見え、遅れて『カラスが飛んできた』と思うのだとしよう(予知できるやつもたまにいるとなお面白い)。もちろん、人の声も同じように遅れて聞こえるとすると、こういう状況で、人々は言語によるコミュニケーションができるだろうか」(p.38-39)。「刺激の処理速度」云々は措いておいて、これを同時刻の相対性の問題と見ると、これは現実世界がまさしくこうであることを、特殊相対性理論は語っている。そして、同時刻が相対的であるにも関わらず、因果性に矛盾が起きないために、(あまり正確な言い方ではないが)速度に(光速という)上限が課せられているのである。