ヴァレリー最後の詩集

松田浩則中井久夫訳。ヴァレリー最後の詩集である。が、その誕生の経緯は複雑である。既にフランスを代表する知性と云われた、名声の絶頂にあった六十六歳のヴァレリーは、親子ほども年齢のちがう、三十四歳のジャンヌ・ロヴィトンと恋愛関係に陥る。日本ではこれほど年齢差のあるカップルは稀だろうが、ヨーロッパでは、特に男性側が芸術家の場合、それほどめずらしいことではない。その後二人は、ヴァレリーの死に至るまでに、一〇〇〇通以上の手紙を往復させる。本書に収められた詩は、その中でヴァレリーがジャンヌに送った、極私的なものであった。ヴァレリーは既に詩作に手を染めなくなってから永かったが、恐らく恋人の要請があって、書き始めたようである。それはそうだろう、ヴァレリーは何せ高名な詩人どころか、当代の桂冠詩人とも言われた詩人だったのだから、ジャンヌの気持ちはわからないではない。
 自分は詩については語るべき能力が不足しているが、「コロナ」と「コロニラ」を比べた場合、圧倒的に前者に惹かれた。共訳の分担がちがうのかとも思ったが、試訳がいずれの方かわからないほど手を入れあったということなので、オリジナルの方がちがうのであろう。全編が恋愛詩であることはいうまでもない。甘くもあり、またヴァレリーの途轍もない苦悩があからさまになっている部分もある。エロティックな詩は意外と少ない。ともかく、本詩集を読んでみても、ヴァレリーは「知」の人だと単純に決めつけることはできない。むしろ、圧倒的に「情」の人なのだ。ちなみに「コロナ」とはラテン語で「冠」のことであり、「コロニラ」は「ちいさな冠」の意である。
 どうやらジャンヌには複数(女性も含む)の恋人があったようで、ヴァレリーもそれに気づいていたようだ。最終的にジャンヌは、出版社の社長と結婚することになったのだが、それを告げられたヴァレリーの衝撃は生命に関わるほどのもので、最終的には、その通告から三箇月後に、ヴァレリーは亡くなることになる。であるから、本書はヴァレリーの手で出版されたわけではない。実際、時間があれば、ヴァレリーは詩にさらに手を入れていたことは確実で、ヴァリアントが多く、まだ徹底的なテキスト・クリティックのなされた版は出ていないようだ。いずれにせよ本書は、文学好きにはまたとない贈り物だと云うことができよう。