國分功一郎のドゥルーズ論は、本当に刺激的だった!

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

何とも刺激的で興奮させられる書物! などと云っても、何も言ったことにはならないが、最近思考力が枯渇してきたのか、面白いものは面白いとしか云えなくなっているのだよね。面倒なことが云えない。
 それにしても、こんなドゥルーズ論は読んだことがない。偶像破壊的だ。まず著者は、哲学研究者としてのドゥルーズを考察する。ドゥルーズはそうした著作で、過去の哲学者を論じているだけで、自分の意見を言っていないか、逆に自分を語るために過去の哲学者を歪曲しているのか、どうなのかを問うている。しかし著者の考えはそのいずれでもない。ドゥルーズによれば哲学者は「概念」を創造する存在であるが、その哲学者自身が自分の概念を完全に展開しているとは云えない、いやむしろ、展開は不十分にしか行われないという。ドゥルーズの哲学研究というのは、その可能性を、原著者に代って充分に展開せしめている、と云うものなのだ。それを著者は、ドゥルーズの「自由間接話法的ヴィジョン」(第一章の題)と呼んでいる。
 第二章は「超越論的経験論」と題されているが、カントの「超越論的観念論」ならわかるが、「超越論的経験論」とは! この章は、ドゥルーズのカント批判である。カントの超越論的領野には、経験的なものが密輸されていて、徹底を欠くということだろうか。そこからフロイトに移り、「快原理」(普通「快感原則」と呼ばれる)と「タナトス」が説明され、「タナトス」をめぐるフロイトの超越論的探求を、ドゥルーズが称賛していたことを明らかにする。
 第三章は「思考と主体性」と題され、「思考」は強制されるものであること、そしてドゥルーズの理論では、政治的実践は失敗すべきものになってしまい、袋小路に入ってしまう疑いを著者は指摘する。
 それを受けて、第四章「構造から機械へ」では、閉塞を打ち破るために、ドゥルーズガタリと共犯していく次第が述べられている。ここは単なるエピソードとして読んでも非常に面白いが、精密に読むのは難解だ。二人の共作は、ガタリが苦労して書き散らしたアイデアを、ドゥルーズが(第一章で論じられた哲学研究のように)刈り込んだり展開したりして、それをさらにガタリが読んで修正する、というような仕方だったらしい。この章の読みは、自分にはむずかしい。
 最終章である第五章では、フーコードゥルーズの交錯が論じられる。ドゥルーズはもちろんフーコーを高く評価しているのだが、フーコーの「権力」一元論では、かならずフーコーのように袋小路に陥ることを指摘する。そしてドゥルーズ自身は、「欲望」一元論であることが主張される…
 以上のメモは、まったく不十分(或は不正確)であることが自分にもわかっている。本書は素晴らしい哲学本であるから、これから続々と応答が現れるだろう。自分としては、それを楽しみに待ちたい。