多田富雄氏の凄惨な人物回想録

残夢整理―昭和の青春 (新潮文庫)

残夢整理―昭和の青春 (新潮文庫)

恐らく著者最後の本なのではないか。生涯に出会った人たちの回想録であるが、対象はすべて死者である。たぶん、己の死を覚悟してお書きになったのではないか。最初から真ん中くらいまでは、凄惨な内容である。まともな死に方をした人物はひとりもいない。著者はもちろん世界的な免疫学者であったが、そればかりでなく、豊かな文学的才能があった。だから本書も、免疫学者の余技などではない。真に文学的感動を与える、稀な書物になっている。ただ、最後の二篇、恩師の岡林篤氏と、能楽師の橋岡久馬氏を扱ったものには、救いが見られる。特に最後の橋岡久馬氏を描いた文章では、舞台の数日前に、手を骨折して骨が飛び出るほどの怪我を負った橋岡氏が、「道成寺」を舞う場面の描写があって、こちらも思わず感極まってしまう程だった。
 しかし、文学的才能をもつというのは、怖ろしいことでもある。著者もまた、氏自身の云う「鵺」をもった人だった。才能があるというのは、人間的魅力とともに、平凡な幸せから離れてしまいかねない。常に、創造の神は意地が悪いのだ。まさしく凄惨である。本書の文庫巻末エッセイは、独文学者の池内紀氏の手に成るものだったが、この優れた文章家の文章が、多田氏の文章のあとでは汚く感じられるほどだった。本書が文学史に名を留めないということがあるとすれば、それはおかしなことだと思われるくらいである。