小林秀雄との対話
- 作者: 小林秀雄,国民文化研究会,新潮社
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 単行本
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小林秀雄は『本居宣長』の強烈なイメージがあるので、晩年は古臭いものばかり読んでいたように思われているような気がするが、じつは色々貪欲に読んでいたようだ。大江健三郎のことはかなり評価していたようだし、ベルクソンの関係であろう、ドゥルーズのことは高く評価していたらしい(小林はフーコーは評価しなかったそうだ。これもわかる。フーコーの知性は鋭すぎる)。小林秀雄のドゥルーズ論など、是非読んでみたかったと思わずにはいられない。白洲正子さんの文章で読んだと思うが、南方熊楠を白洲さんに薦めたのも小林秀雄である。まあ、そんなことをいくら書いても仕方がない。日本人は変ってしまった、それだけを思う。
※追記 もうひとつ。文章こそが思想だということ。小林秀雄はそういう考え方をする人だった。だから、小林秀雄は、自分の文章に命を吹き込もうと、それこそ血の滲むような努力をした。今では、こうした考え方が馬鹿馬鹿しいと思われることはわかっている。自分でも、概念を転がすことが考えることだと、どうも勘違いしていて気づかないことがあるかも知れない。今風に染まっているのだな。
※再追記 本書読了。本書の最後に、前半の講演録と学生との対話を基にした、小林秀雄自身の文章の定稿がある。自分もかつて全集に録されたものとして読んだものだ。これに目を通してみると、意外にゴツゴツした感じになっていて驚いた。柄谷行人が、小林秀雄は文章を徹底的に直すが、元の方がいいと言っていたことを思い出すが、それはわからないでもない。講演を文章化したものは、わかりやすく、これはこれで魅力的だからだ。小林が定稿にしたものは、確かに難解になっている。しかしこれは、ギリギリの領域で書かれており、こちらも頭をフルに使わないと読み解けないところもあって、これが小林秀雄の書き方なのだと得心するところがあった。結局彼は、「作品」というものに拘りがあったのだと思う。小林秀雄の文章は外国語にも翻訳されているが、外国でもまったく反響がないそうである。確かに、小林秀雄が心血を注いだのは、日本語そのものだったのだ。恐らく、翻訳されたものは、小林秀雄が日本語に注いだ努力を、欠いているのではないかと思う。