本書の世界は本当に「ディストピア」なのか?

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

旧訳をかつて読んでいるが、中身をほとんど忘れていたので楽しめた。これはまたおもしろい小説ですね。一応「ディストピア(アンチ・ユートピア)」小説とされるが、一筋縄ではいかない。というのは、このディストピアユートピアと殆ど見分けがつかないのだ。徹底的に清潔で楽しく、欲望は満たされ、誰もが幸福に包まれた社会。これこそ人類の目標だと考える人間がいてもまったくおかしくないし、現実に世界はその方向を向いているのではないか。確かにここでは、人間のすべてが管理されている。しかし、不幸は「ソーマ」を飲めば化学的に解消されるし、セックスも自由、それなのに結婚をする必要はなく、何より一切の戦争がない。本書第二の主人公である「野蛮人」ジョンはこの社会を拒絶するが、最終的には自殺に追い込まれてしまう。この社会をリジェクトするには、相当の思想と覚悟が必要だろう。結局、本書の提起する問題は、我々には自由が必要なのかというところにあるからだ。実際、我々の現実を深く考えてみれば、我々には果して自由があるのかどうか、これは議論の余地があるだろう。我々は、何かに動かされているだけなのではないのか。ラカンは「我々の欲望は他者の欲望である」と言ったが、まさしくそれは真実であろう。本書の議論が、深いところに届いている所以である。
 それにしても、本書の世界で戦争がなくなっているのは、興味深いことである。ひょんなことを考える。二十一世紀になっても戦争が絶えないのは、我々が自由を求めるせいなのではないかと。我々は戦うとき、究極の自由を感じるのではないのかと。しかし、やはり自分はこれは認められないな。日本にも戦争を体験した人たちがまだわずかに生き残っているが、戦争の悲惨さは論じるまでもないことである。怖いのは、実際に戦争を体験した人たちがいなくなって以降だ。今ですら、戦争をしたい奴らが大きな顔をするようになってきている。そのうち、どういうことになるのであろうか。