「暇と退屈の倫理学」とはね!

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

これは素晴らしい書物だ。著者はまだ若いが、今の若い人たちには驚くべき才能がいる。だいたい、『暇と退屈の倫理学』とは、題からしていいではないか。残念ながら自分には、本書を上手く要約する力がないし、それに著者も言っているとおり、本書は一気に通読した方がいい。だからまあ、簡単に感想だけ述べておく。
 さて、今の時代、何だかんだ云っても、世は豊かになり、仕事に齷齪するだけでなく、自分に自由に使える時間が増えてきた。これは大筋のところで、そうだと云えると思う。つまり、「暇」ができたわけだ。しかし、我々はじつは、その「暇」を持て余しているところがある。何か「退屈」を覚えてしまうのだ。そして、その暇をつぶすために、高度消費社会は様々な誘惑を創り出し、我々の欲望をかきたてて已まない。「進歩」の果てにこれだとは、こんなことでいいのだろうか? 著者の問題意識は、ざっとこのようなものだと思われる。そしてこの問題を考察するために、哲学を始めとした、様々な知が援用される。もっとも、だからと云って引く必要はない。本書は妥協はしていないが、むずかしい哲学でも、きちんと(それも見事に)噛み砕いて記述してあるので、心配はいらない。
 本書で一番徹底して検討してあるのは、ハイデガーの「退屈論」である。と云っても、ハイデガーにそうした著作があるわけではないが、『形而上学の根本諸概念』がそうだというのだ。じぶんはこの本は読んでいないが、その読みがじつに面白くて、驚嘆した。ここいらは、出来れば自分で読んでみてほしい。著者はハイデガーの云う退屈を、第一形式と第二形式に分けている(後に第三形式も登場するが、これは第一形式と結局同じだとされる)。前者は「何かによって退屈させられること」、後者は「何かに際して退屈すること」とある。ちょっとわかりにくいが、前者は、電車を長い時間待っているときに感じるような退屈で、やることがないという、まあ普通の退屈である。後者は、これは重要かつ難解で、パーティにおける退屈の例が挙げてある。何かしているのに、退屈なのだ。暇がないのに退屈だと云ってもいい。これは奇妙な退屈で、我々の生の充実を以てしか、晴らすことはできない。また、それであるがゆえに、かかる退屈がなければ、そしてそこから脱しようとしなければ、我々の生は豊かなものにはならないのだ。したがって、この「退屈の第二形式」は、重要ですらある、と云える。
 まあ、こんなまとめでは本書の面白さは到底伝わらないから、是非一読をお薦めする。本書にはこれ以外にも、モリス、ヴェブレン、ガルブレイスパスカル、ルソー、ホッブズマルクスアレント、ユクスキュル、ドゥルーズ等々、様々な思想家が検討されている。しかし、恐れることはないと繰り返しておく。最後に蛇足を加えておけば、吉本隆明は、この「退屈の第二形式」を徹底して擁護した思想家だと云えるのではないか。彼は人間の進歩=贅沢を、徹底して肯定したのだと思う。本書の著者も、ある意味ではじつはそうなのではないか、とも感じたのだった。