丘の上のバカ

メディアで見た文章で源一郎さんについて書かれたものは、これまで殆どが悪口や非難、揶揄のそれしかなかったような気がする。なぜ多数のかしこい人たちは、源一郎さんをバカにするのか。本書の題名の「バカ」は単に源一郎さんのことだけではないが、確実に源一郎さんの自己評価でもある。かしこい人たちは、そういう物言いも「戦略」だと考えるのかも知れない。とそんなことに反応するのは、自分もいまに至って自分をつくづくバカだと思うようになったからだ。世の中は本当にかしこい人たちに溢れている。バカはこれまた確実に少数派である。たぶんかしこい人たちは、バカが喋るのが気にくわないのだろう。自分も沈黙したい気がする。といっても、この過疎ブログなど沈黙に等しいわけだが。
 ポストモダン哲学の最大の功績のひとつは、「自分の言葉だと思っているものはじつは、その殆どがじつは他人の言葉にすぎない」という事実を明らかにしたことであると思う。ってこれは僕の理解にすぎないから、テキトーです。源一郎さんがすごいし、その言葉が自分の琴線に触れる理由は、その事実を源一郎さんがわきまえているからだとも思える。とにかく自分なりに自分で考えてみることは、バカにもかしこい人にもまず不可能なくらいむずかしいことである。本書での源一郎さんの意見は確かに自分には納得・共感されるものがとても多いのだが、結局はそれが「正しい」からというより、自分の手持ちの材料で考え抜こうとするその姿勢にいちばん共感するのだと思う。それは必然的にまちがうのだが、我々バカはそうして考えるしかないのだ。本書は政治という難物を相手に、源一郎さんが徒手空拳で立ち向かったバカの記録なのだと思う。

忘れられたガザ

ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

本書を読んでいて二度ほどこみ上げてくるものがあったが、それについては書くまい。二〇一四年夏のガザ攻撃に関するルポには、ジワジワと忍び寄ってくるような恐怖、正確にはむしろ驚きを感じた。本書は殺戮に満ちているが、それまでは殺すのは「イスラエル人兵士」たちだった。彼らの殆どはパレスチナ人に敵意を抱いていたが、それでも自分の手によって殺すのだった。だからその中には、その行為を疑問に思う者が(圧倒的少数にせよ)出てくるのであり、実際に著者はそのようなイスラエル人兵士たちに接触を試みている。しかし、二〇一四年夏の攻撃では、生身のイスラエル人兵士の姿がまったくない。ハイテク兵器による、遠隔地からの「効果的な」殺戮のみがあり、肉体の接触がない。このような「戦争」になり、事態は無意識レヴェルで大きく変ったように思えて仕方がない。イスラエルでは(市民レヴェルでも)人を殺しているという感覚が希薄化し、またガザですら、敵意以上に無気力がすべてを覆っていったように見える。リアルな敵の見えない、ゲームのような殺戮、また家畜のように無気力に殺されるということ…。人間というものはここまで出来てしまうものだということがわかる。本書の題名はポジティヴなものであるが、これは著者の「こうであるべき筈だ」という思い込みの、強いられた「楽観」であろう。著者の伝えるガザにどのような希望がひとかけらでもあるのか、自分にはまったく理解できないし、すでに国際的な注目は IS を中心とする情勢にあって、世界はガザを忘れているように見える。これが人間の所業なのだ。

まだ我々には青柳いづみこさんがいる

著者は優れたピアニストでもある物書きであり、この人にピアニストを語らせると誰も太刀打ちできない。素晴らしくもおもしろい文章を書かれる。著者の評論は、音楽の優れた専門家として演奏を正確に聴き取った上で、それを専門家に対して専門用語でもって書くのではなく、一般人にもよくわかる優れた文章で書かれるのが特徴だ。まるで音楽が聞こえてくるかのような文章で、こういう文章が書けた人はあの吉田秀和さんしか自分は知らないのである。それにしてもプロというのは凄いもので、たぶん僕などが聴く10倍以上の情報を聴き取っておられるのではないか。これは自己卑下ではなくて、たぶん僕は素人としてはふつうに音楽を聴けると思っているので、そこが素人とプロのちがいなのである。僕は音楽を聴くのが好きだが、これほど豊かに聴いておられるのを目の当たりにすると、ちょっとうらやましくなってしまうほどだ。そして、著者はきちんと意図を持って文章を書いておられる。本書で冒頭にポリーニアルゲリッチを取り上げ、次に内田光子バレンボイムに関する画期的な分析をおこない、そしてクラシック好きがバカにしがちなフジ子ヘミングまできっちり評論しておられる。それにしても、著者は悪口もイヤミも書かない。これには感心してしまう。どのような演奏に対しても、それを様々な角度からきっちり評価してしまうのであり、悪口やイヤミなどの入る隙間がないのである。基本的に姿勢がポジティヴなのだ。そして、ピアニストにしても自分たちふつうの音楽好きはどうしても一流の人ばかりを聴いてしまうが、著者は職業上様々なレヴェルのピアニストたちを聴き、その「苦労」をよく知っておられるので、評論の幅が広い。これも自分などには絶対に真似ができないところである。要するに、第一級の批評家なのだ。これからも自分が著者を読むことは、間違いのないところであろう。それから、ピアニストとしての著者ももう少し聴いてみたい。CD を一枚もっているだけなので。

物理学って楽しいよな、そうでしょう?

趣味で量子力学

趣味で量子力学

おお、ついに出たかという感じ。ちゃんと近所の本屋に置いてあってとっても嬉しかった。これで EMAN さんの「趣味」本も三冊目で慶賀に堪えない。これはサイト「EMAN の物理学」そのままの内容ではないので、EMAN さんの世界が好きな人は買っても損はないです。で、EMAN さんはじつはこの倍の厚さの分量を書きたかったそうです。でも、値段が高くなるので涙を呑んでこのページ数にしたそう。本書が売れれば続編が出せるかも知れないそうなので、ファンはちゃんと買いましょう。
 で、一気に通読した感想だが、やはり「量子力学はむずかしい」ということ。そりゃお前の頭が悪いせいだろうと云われるかも知れないが、まあそれは確かにそうなのだけれど、僕の言いたいことはそれとはちょっとちがう。数学的な点で云えば、本書のような入門レヴェルの内容ならば、僕だってだいたいはわかっているつもりである。それでも本書はむずかしいし、量子力学は理解するにむずかしいのだ。これが一般相対性理論ならば、これも確かにむずかしく、僕などにはそれを使って問題をバリバリ解いていく力はないけれども、それでも一般相対性理論のあらましは見えている感じがする。イメージとして、自分の理解はそんなに見当はずれではないことは確信しているのだ。量子力学には、そういう感じがもてない。何だか、どこをどう攻めていったらよいかわからないというか。
 本書に目を通しても、それを克服したという感じは自分にはまだない。しかし、ちょっと見えてきたところもある。こう言っては失礼だが、EMAN さんは抜群に切れる秀才ではない。であるからこそ却って、納得するまで自分で考えるということをされている。そこらあたりで見えてきたのだ。まだそれは上手く言語化できないが、とにかく量子力学は「公理論」的に考えているだけではダメなのだ。僕は、典型的な還元主義者、公理論的発想をするタイプだと思う。ここの攻め手からだけでは、どうも突破口は開けないらしい。
 いつもの EMAN さんの本と同じで、本書は抜群の秀才のための本ではない。どちらかというと、何とか量子力学を理解したいが、どの教科書を読んでもよくわからなかったというような、ある意味凡人の助けになるかも知れない本である。かと言って、アマチュアだけのための本でもない。いつもながら、自分は読んで楽しかった。しばらく本書をあちらこちらひっくり返すつもりである。EMAN さんが書きたいという続編も、期待して待ちたい。

「微分」「積分」という語の出てこない(!)微積分の本

微積分入門 (ちくま学芸文庫)

微積分入門 (ちくま学芸文庫)

これはユニークな本だ。微積分を教える本なのに、lim すら出てこない。というか、「微分」という語すら基本的に使われないのだ! では、どうやって教えるのか。それには、ちょっと歴史を思い出してみよう。微積分という学問の創始者は、ニュートンライプニッツだと云われる。二人はそれぞれ独立して微積分を「発見」したとされるが、順番はニュートンの方が少し早く、またライプニッツは、微積分発見の事実だけは知っていたかもしれない。そして、二人の発見した内容は同じではあるが、その見かけは随分ちがっている。ニュートンは「力学」の創始者でもあり、その力学のために微積分を考え出した。いわば「物理学的」なのである。一方、ライプニッツ微積分は、「数学的」である。二人の微積分学は、表記法も随分ちがう。いま普通に使われるのはライプニッツ流の表記法であるが、物理学ではニュートン流の方がわかりやすいことも多い。
 どうしてこんなことを書いたのかと云えば、じつは本書は、上の「ニュートン的な」考え方で微積分を教えているのである。簡単に云えば、こういうことだ。誰でも「距離」と「速さ」というのは知っているだろう。じつは、「距離」を(時間で)微分したものが、「速さ」なのである。そしてその逆、「速さ」を(時間について)積分すれば、「距離」になる。これがすべてなのだ。ただ、これを納得するのは、なかなか簡単ではない筈である。本書は、それを納得させようという本なのだ。
 さて、本書の想定する読者はどんな人か。これはちょっとむずかしい、本書の内容そのものは中学生でも理解可能だと思うが、3次以上の代数は中学ではやらず、高一でやることになるので、高一の数学が必要になってしまう。じつは3次以上の代数と云っても大したことは使われていないので、そこだけ勉強すれば中学生でも読めるだろう。まあ、高校生が楽しく読んで欲しいと思う。本書は「簡単な」説明をしているが、基本的にはこれで充分なのだ。あとは、本格的な数学書を読めばいいと思う。数学から離れてしまった大人も、是非中高生の頃を思い出して、本書で遊んでみて欲しい。

僕の好きなシジン

雨過ぎて雲破れるところ

雨過ぎて雲破れるところ

最近読んでもっとも魅力的だった本。なんと云うか、佐々木さん(本書では「シジン」と呼ばれている)の文章には、僕は極めて惹きつけられるし、感動的である。これはどういう魅力なのだろう。シジンその人の魅力なのか、本書は嬬恋村での山小屋生活の記録なのであるが、ここにはどんどん人が集まってくる。それがまた、皆素晴らしく生き生きとしているし、子供たちもまわりで(ガンガン殻をやぶって)成長していく。皆の遊び方がまた本当に楽しそうだ。特に、自発的な音楽に溢れていて、プロも個人的に来るし、そのプロたちとの相乗効果で、山小屋仲間たちも(子供たちも)湧き上がるように音楽と交流している様子が感動的である。いやもう、自分の文章力のなさが残念である。こういうのが「生きる」ということなのではないか。
 佐々木幹郎という人は最近まで知らなかったが、僕にはこの人は「ちょっとちがう」ように思われる。どこか、生命の根源に触れている人ではないかと感じる。世の中には色んな「詩人」がいるが、こういう人こそ本当の詩人なのではないか。シジンの手にかかると、生きるというのは何と楽しいことか。手垢にまみれた言葉だが、僕はこの人はホンモノだと思っている。是非、詩集も読んでみたい。

意見を決めるということ

今アルコールが入っているので面倒なことが書けないが、一応書いておきます。著者は専門の学者というわけではなく、NHKの記者から始めて番組の制作などにも携わり、今では世論調査に関する部署の副責任者とでもいう立場の方です。「週刊こどもニュース」の三代目お父さんもやられたそうで、自分は存じませんが知っていられる方も少なくないのかも知れません。本書は岩波新書なので、数式なども含めた、世論調査の啓蒙書かなと予想していたのですが、実際そういう本も書けたような印象ですけれども、「世論調査の世界に入ってきたときの自分が『あったらいいな』と思っていたような本」を書こうとされたということで、これはこれで立派な態度だと思いました。そして、その目論見は成功したと言っていいでしょう。数式などはありませんが、自分は非常に啓蒙されました。我々市民が世論調査の報道を見聞きして、考えねばならないこと、注意すべきことは網羅されているのではないかという読後感です。そして、政治などを考えるにおいて、世論調査の役割を正確に捉えるということは、市民に必須のリテラシーなのではないかという結論に至りました。世論調査は、使い方により、国民のためにも、また国を滅ぼすためにも使える、大きな力のひとつなのです。例えば今の安倍首相は、世論調査の結果を見て、与党が三分の二を占める衆議院を敢て解散し、前回の衆議院選挙に勝ったのです。それは単に、自分の任期を確実に伸ばすという目的以外のものではなかったのであり、それこそ国民は疑問に感じた(という世論調査結果が出ていました)選挙であるにも関わらず。まあ、これについてはこれ以上書きません。
 ですから、本書は我々市民が読んで損はない書物であると云えましょう。自分は推奨しておきます。で、あとはちょっと蛇足をしておきます。読んでいて自分に思われたのは、世論調査はいいのですけれど、それでいつも思うのですね、皆どんなことについても、聞かれれば意見が言えるのだなあと。本書に笑い話でなく、こんなことが書いてありました。アメリカのワシントン・ポストが、「1975年公共法」の施行二〇周年にあたり、この法律を廃止した方がよいかを調査したところ、半数の人が「わからない」と回答したそうです。半数もわからないなんて、普通は質問の仕方に問題があるところですよね。しかし、その結果を当り前だと取るべきなのか、というのは、そんな法律はじつは存在していなかったのです。半数の人は「わからない」とは答えなかったのですから、存在しない法律について意見をもっていたということになりますね。バカバカしいと思われる方は幸いです、僕は、これに近いことはじつは普通なのだと思います。もっとも、だからどうというわけではないのです。事実はそんなものなのですが、僕はむしろ、何にでも意見をもつというのは、却って問題なのだと考えます。アメリカの知識人で、スーザン・ソンタグという人がいました。既に癌で亡くなっていますが、この人の発言は個人的に心に残るものが多かったです。で、そのソンタグは、高橋源一郎さんからの間接的な知識ですが、何にでも意見をもつことをよいことだとはしなかったそうです。敢て意見をもたないこと、意見を決めないこと。その方が柔軟で誠実であり、敢て云えば「正しい」ことがあると、ソンタグは言いたかったのかわかりませんが、自分はそう解釈しています。存在しない法律について意見をもつこと、そういうことが少なからず世論調査の中に含まれているような気がしてならないのです。
 少し話はずれますが、意見を決めるということで、熟議民主主義という考え方があって、理想ではあるがそう上手くいかないという(現実的な)判断もあります。でも、僕は自分が対話の場にないので痛感するのですが、やはり対話は意味があるような気がします。本書にも「討論型世論調査」というものが紹介されていて、そう簡単なことではないらしいですが、著者はその可能性も感じておられました。そこでですが、僕は、インターネットのいいところは、自分のとちがう意見に簡単に接することができることにもあると思っています。そこに他人との、想像上の「対話」が行われるといいわけです。それですらなかなか上手くいかないですが、インターネットの可能性だと思っています。