『ぼくらの民主主義なんだぜ』確かに!

朝日新聞論壇時評の新書化。最近は新聞に目を通す時間がめっきり減ったが、源一郎さんの論壇時評は必ず読む。というか、母も源一郎さんの論壇時評のファンで、いつも読め読めというので、読み忘れたことはない。本書に収録された48篇も、ほぼすべて多少は覚えていた。しかし纏めて読んでいて、ウルッとなったところが幾つかあったし、心の中では殆ど号泣していた。何故なんだろう? 本書を読んでいて思われて仕方なかったのは、この国は殆どもうダメだということである。いや、それならいつも思っていることで、特別なことではない。感動させられるのは、源一郎さんは決して諦めないし、なにより政治や社会、経済を考えるにおいて、極めて柔軟で繊細な、新しい語り方を作り出していることである。とにかく、今までの言葉だけでは、日本を、世界を語るには不十分なのだ。自分はもう若者ではとっくになくなっているけれど、源一郎さんから見ればまだひよっこのような歳だろう。まだまだ諦めていてはいけないのだと思った。こんなロックな、パンクなジジイが頑張っているのだからね。こんなことを書いてもムダであろうと、今でも心はまだ萎えそうではあるが、自ら叱咤したいと思う。
 それにしても驚かされるのは、源一郎の言っていることはとても大切なことがテンコ盛りなくらいなのに、そこには「正義」の腐臭がまったく感じられないところだ。そこが例えば池澤夏樹とはちがって、源一郎さんが真の知識人である証拠だと思う。たとえ弱者のために「正義」を振りかざすのだとしても、その「正義」は必ず副作用があり、さらには必ず反転する。これは本当にむずかしい問題で、その罠から逃れられるには強靭な思考力が必要とされるのだが、源一郎さんはそれをほば達成しているようなのだ。
 本書はちょうど東日本大震災の直後から始まっているが、あれから日本はずっと大変な状態に陥っていて、今でも事態はどんどん悪化している。本書を読むとそれがよくわかる。経済はリフレ政策でよくなってきたが、本書で扱われている問題は殆ど何ひとつ解決していないようだ。つくづく思うが、経済がよくなったことはじつによいことだけれども、経済の好転がすべてを解決するわけではない。それどころか…、いや、やめておこう。しかし、どうして我々はこんなところまで来てしまったのか。
 子供たちが出て行ってしまった祝島で、棚田で米を作り続けている80歳のおじいさん。棚田は、おじいさんのおじいさんが子孫のために30年かけて石を積んで作り上げてきたものだ。「田んぼも、もとの原野へ還っていく」と、おじいさんは微笑んで、新しい苗代を作るのである。(p.39)

正確な「原子・原子核・原子力」の理解のために

これは万人の必読書なのではないか。本書は力学の概観という、とても根本的なところから始めてゆっくりと進み、最後は原子力にまで到達するという本である。中高生レヴェルの数式も多数使い、なるたけ論旨にギャップがでないように心がけて書かれているのがよくわかる。内容は、だいたい理系の大学初年度のレヴェルということになるが、これほどの密度と構成力のある講義ができる先生は、一流大学でも殆どいないことは明らかだ(科学それだけでなく、科学史の該博な知識があるのがすごい)。自分も知らないことが多かった。ただ、原子・原子核原子力の本当の説明はどうしても量子力学が必要なので、さすがにそれは断念され、量子力学なしで可能な限り、説明がされている*1。さても、本書は、科学の教科書として使うこともできるだろう。
 本書の特徴が出ているのは、第六章「原子核について」と第七章「原爆と原発」であろう。ここは特に自分の知らないことが多かった。最終的な結論は、自分の読み取ったところでは、原子力発電は科学的・論理的整合性から見て、とても許容できる技術ではないということである。そのロジックは、自分の力では要約不可能なので、実際にお読み頂きたい。著者の経歴から政治的バイアスが掛かっているだろうと思う向きもあるかも知れないが、ならば本書を論理的に反駁して頂きたい。しかし、(特に日本の)政治は科学や論理的整合性というものとは無縁なので、これからも原発は使われていくのであろうか。よく「原発国益になる」という人がいるが、僕はその命題が成立しないことを、今回の読書で確信した。その根拠として特に挙げておくと、原発燃料の連鎖核分裂反応は、原理的に止めることができないのである。本書には書いていないが、原発で一見核分裂反応の「制御」のように思われるのは、ただ炭素によって中性子を吸収しているだけで、核分裂の連鎖反応を止めているわけではない。まさしく「消せない火」なのだ*2。また、これは知らなかったが、原発からの排水は高温であるがゆえに沿岸漁業と排他的であり、さらに排水の中には、「基準値」は下回るように稀釈されてはいるが*3、れっきとした放射性物質が堂々と放出されているのである。そしてその「基準値」というものには、合理的な根拠がないのだ。
 これ以上は詳述しない。著者は恐らくイデオロギー的な立場をもっておられるだろうが(そのことの何が問題だろう)、本書はイデオロギーで書かれているのではなく、著者はまず科学者として書いている。国益というものが仮に重要であるのなら、本書こそ国益のために書かれているとも断言できる*4。さても、無知というものが如何に恐ろしいか、日本人は原発事故で体験したはずなのに、このままではまたそのうち身を以て知ることになるだろう。

*1:というのは正確ではないかも知れない。量子力学の体系は解説されていないが、その果実は説明に取り入れられている。特に前期量子論

*2:福島第一原発でなかなか核燃料を撤去できない理由も、そこにある。また、同じ原理的帰結として、原子力発電は火力発電などとちがい、常にフル稼働させるしかない。電気が余っても、原発の発電レヴェルを下げることはできないのである。それにしても、福島第一原発の「廃炉」など、技術的に見て実際に可能なのだろうか。炉心から溶け落ちた(メルトダウンした)核燃料は、反応を止めるわけではない。「廃炉」が技術的に可能というならば、その知識は公開され報道されるべきなのではないか。

*3:「基準値」とは割合の問題であり、絶対量はまったく無視されている。

*4:しかし、「国益」とはいったい何なのだろうか。第二次世界大戦で日本人が一千万人以上のアジア人を殺した(遠藤三郎)のも「国益」のためだったし、アメリカが日本に原爆を落としたのも「国益」のためであった。

本書の世界は本当に「ディストピア」なのか?

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

旧訳をかつて読んでいるが、中身をほとんど忘れていたので楽しめた。これはまたおもしろい小説ですね。一応「ディストピア(アンチ・ユートピア)」小説とされるが、一筋縄ではいかない。というのは、このディストピアユートピアと殆ど見分けがつかないのだ。徹底的に清潔で楽しく、欲望は満たされ、誰もが幸福に包まれた社会。これこそ人類の目標だと考える人間がいてもまったくおかしくないし、現実に世界はその方向を向いているのではないか。確かにここでは、人間のすべてが管理されている。しかし、不幸は「ソーマ」を飲めば化学的に解消されるし、セックスも自由、それなのに結婚をする必要はなく、何より一切の戦争がない。本書第二の主人公である「野蛮人」ジョンはこの社会を拒絶するが、最終的には自殺に追い込まれてしまう。この社会をリジェクトするには、相当の思想と覚悟が必要だろう。結局、本書の提起する問題は、我々には自由が必要なのかというところにあるからだ。実際、我々の現実を深く考えてみれば、我々には果して自由があるのかどうか、これは議論の余地があるだろう。我々は、何かに動かされているだけなのではないのか。ラカンは「我々の欲望は他者の欲望である」と言ったが、まさしくそれは真実であろう。本書の議論が、深いところに届いている所以である。
 それにしても、本書の世界で戦争がなくなっているのは、興味深いことである。ひょんなことを考える。二十一世紀になっても戦争が絶えないのは、我々が自由を求めるせいなのではないかと。我々は戦うとき、究極の自由を感じるのではないのかと。しかし、やはり自分はこれは認められないな。日本にも戦争を体験した人たちがまだわずかに生き残っているが、戦争の悲惨さは論じるまでもないことである。怖いのは、実際に戦争を体験した人たちがいなくなって以降だ。今ですら、戦争をしたい奴らが大きな顔をするようになってきている。そのうち、どういうことになるのであろうか。

まさしくも「AIの衝撃」!

これはじつに刺激的だった。一気に読み切ってしまった。AIとは「人工知能」のことであるが、近年における急激なAIの発展について本書はレポートしている。我々にわかりやすいのは、プロ棋士すら打ち負かすようになった将棋ソフトだろう。また、自動車の自動運転なども、このところよく言及される。しかし、我々にはわかりにくいところでも、AIの発展は進んでいる。本書で述べられるところでは、いわゆる「ビッグ・データ」の解析にAIを使う技術である。一例を挙げれば、アマゾンで何かを検索したりするだけで、お勧めの商品を推薦してくるアレである。グーグルなどは、我々のあらゆる情報活動を収集していて、それを解析しようとしている(だから、僕はブラウザはグーグルの Chrome を使っているが、グーグルによる情報の収集は設定で認めていない。しかし、実際はどうなっているかわからないが)。
 AIの発展により、これまで人間にしか行えなかったことが機械化されようとしている。将棋の例は既に挙げたが、自動翻訳から技術知の自動化まで、いや作曲などの芸術活動ですら、AI化されつつある。「ディープ・ラーニング」というタームがあって、最近のAIの学習に関しては、その結果が人間の予測を超えるようなシステムが現実化してきている。プロ棋士の予想を超える好手を出力する将棋ソフトなど、その典型だ。我々は、既にコンピュータの出力が理解できなくなってきている。
 もともとAIの発展は、じつは人間の脳をそのまま模してなされたものではない。それは一部だけのことで、基本的には数学理論である。しかし、最近では脳の模倣も進み、ニューロンの活動をハードウェア的に模倣するチップまで現実化しようとしている。これが何を生み出すかは、まだまったくわかっていないが。
 日本はとてもAIの先進国とは云えないらしい。本書で頻出するのはグーグルを筆頭に、マイクロソフトフェイスブックであり、人名もほぼ外国人の名で占められている。日本の学生は優秀であるらしいが、伸び悩むようだ。自分にはこれはよくわかる。AIなどの未知の分野の研究には、ドン・キホーテ的な強烈な世界観の先導が必要だからだ。「哲学」が必要だと云ってもいい。そこは日本人の苦手なところで、どうしても技術論以上のところへ行かない。これは国民性と言っていいだろう。もちろん、日本人にAI研究は不可能だと言いたいわけではない。このような思い込みを打破してくれる研究者の登場が期待される。
 (なお、日本の企業に関しては、研究者以上に絶望的であるようだ。もちろん著者はそんなことは断言していないが、危機感は相当に感じられる。恐らく、日本の企業には、危機感すらあるまい。)
 最後に。本書ではさほど強調されていないが、AIが革命をもたらすのは、恐らく(いや、まちがいなく)軍事分野である。いま軍事分野でいちばん課題になっているのが、戦争(戦闘)の無人化であり、AIの技術はまさしくそれにピンポイントであるからだ。実際、ドローンと小火器を組み合わせたような自動戦闘装置なら、現在の技術で簡単に作れるだろう(アニメの「攻殻機動隊」でバトーが対峙したような)。自動殺戮機械の登場は、近い未来のことであると考えて間違いないだろう。これが戦争をどう変えるのか、そしてそれは、人類の有り様にまで関ってくるかも知れない。念頭に置いておいて損はないことだと思う。
AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

ハリヨと自然保護

トゲウオのいる川―淡水の生態系を守る (中公新書)

トゲウオのいる川―淡水の生態系を守る (中公新書)

何の予備知識もなしに読んだが、敢て名著だと云っていいだろう。著者はトゲウオ類の研究者であり、ハリヨやイトヨが絶滅に瀕していることもあって、自然保護という側面からの活動も積極的になされてきたようである。本書は、今風に云うなら「アツい」本だ。理の通らないことについては、はっきりとズバズバものを言っている。それがまず自分には爽快だ。
 自分は恥ずかしながらまったく知らなかったのだが、本書で詳しく語られるハリヨは、現在では滋賀県の一部と岐阜県の西濃地方にしか生息していないらしい。本書では特に岐阜の話が多いのだが、岐阜県人には恥ずかしい話が多くある。ハリヨを滅ぼして造った橋が「ハリヨ橋」と名付けられ、ハリヨの絵(それも御丁寧に、科学的に誤った)が書いてあるプレートが、橋に取り付けられているとか。役所に行ったら、胸ぐらを掴まれて外へ出されたとか(左翼の活動家とでも間違えられたのであろう)。一方で、誇らしい人たちも居て、積極的に保護活動に取り組んでおられ、西濃には「はりんこネットワーク」などというのまで存在するそうである。
 本書を読むと、自然保護ということについても、考えさせられる。自分などはひねくれているので、現在「正義」である自然保護というものには、素直に諸手を挙げて賛成とは行きかねる。しかし本書を読んでいると、まだまだそれは口先だけの「正義」であることが多く、相手がそれでは、ひねくれてみせるわけにもいかない。だいたい、著者は研究者として自然保護に尽力されているが、必ずしも本当に自然保護のために動く研究者ばかりではないだろう*1。著者のような人は、むしろ例外なのではないか。自然保護は、まず住民の手でなされるべきであり、それに行政と研究者が協力するという風にしないと、結局は上手くいかないだろう。これは著者がはっきり言っていることである。あとは、住民の「民度」。自分などには、この民度が足りないだろう。なかなか、自然保護に立ち上がるとか、出来そうにもない。しかしまあ、事実くらいは知っておきたいものである。
 なお、著者は単に魚の研究者というだけではない。生態系や河川の形態などの観点からも研究されていることは、本書からもはっきりとわかる。また、著者は決して治水工事に一切反対などという立場を取っている方ではない。それが気に入らないという純粋主義者も居るかも知れないが、自分などは、それだからこそ著者が信用できると考える。
 何だか取り留めもないことばかり書いたが、誰が読んでもきっと損にはならない。優れた学者が何を考えるか、そういう本として読んでもいいと思う。決して読みにくくはないし、著者の熱意は読者を動かすかも知れない。中公新書らしい、価値の高い新書本であろう。

*1:例えば岐阜には「長良川河口堰問題」というのがあって、建設にゴーサインを出した岐阜大学の御用学者は、岐阜では有名である。それは別に岐阜だけの話ではなくて、日本中に御用学者は蔓延しているであろう。

『存在の耐えられない軽さ』以上のミラン・クンデラの傑作

冗談 (岩波文庫)

冗談 (岩波文庫)

西永良成訳。まず書いておくと、最近ではこれほど貪るように読み、途中の中断すら惜しいほど惹き込まれた本はない。本書はクンデラの処女作であり、個人的には『存在の耐えられない軽さ』の上に置きたい。題名である「冗談」とは、共産主義下のチェコで、ある青年(主人公のルドヴィークである)がガールフレンドに「冗談」で共産主義を揶揄するような葉書を送ったところ、それが元で当局に連行され、軍の強制労働に従事することになることから来ている。物語はそのルドヴィークの章と、彼に関係する人物の視点から見た章が交互になっている。自分がいちばん没入したのは、第三章のルドヴィークの収容所でのエピソードであり、ここで不思議な女性であり、本書でいちばん謎めいた登場人物であるルツィエとの「恋愛」が語られる。ルツィエは意識の薄ぼんやりとしたような、おどおどすらした女性なのであるが、他ではインテリの鼻持ちならなさが時として出るルドヴィークであるけれども、ルツィエとの関係ではそこに本当の「愛」があるような感じで、不思議な雰囲気が出ており、何故かわからないが自分はとても惹かれた。自分でも何にこれほど惹かれるかよくわからず、恐らくはここに自分の精神分析学的な無意識が出ているのかも知れない。
 その他の章も読み応えは充分であり、その体験をくぐり抜けたルドヴィークは、自分を陥れたゼマーネクに復讐しようとするのであるが、あとは読んでのお楽しみということにしたい。本書には自分にはよくわからないところも少なくなく、特にヤロスラフと「王様騎行」のエピソードは、本書の中で他と遊離している感がある。また、ルツィエとの再会も、プロットからすれば殆ど意味がない。けれども、それを除けば、小説の謎も失われてしまうようでもあるし、自分には何とも言えないのだが。なお、本書は1968年のソ連軍のチェコ侵攻以前のエピソードであり、ソ連軍の侵攻は、本書を政治的文脈で読むことを時代に強要してしまったところがあるらしい。しかし自分は、本書の文学的価値を強調したいと思う。これは本物の小説であると確信している。
 蛇足であるが、本書は著者の手が全面的に入った、最後のフランス語版から翻訳されている。日本語として見る限り、立派な翻訳であると思う。岩波文庫に相応しい古典であろう。

(陳腐な表現だが)笙野頼子は過激だ!

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

だいにっほん、ろりりべしんでけ録

三部作完結。本書を読んでいて、結局自分は「おんたこ」も「ドイデ」(マルクスの『ドイツ・イデオロギー』)も、フォイエルバッハも「金毘羅」も、ひっくるめてどうでもいいのだなと思う。では、笙野頼子は読むに値しないのか。いや、全然そんなことはない。本三部作に限らず、結局笙野頼子のキモは、あの奇妙な言語感覚にあるような気がする。それは、正確に云おうとするとむずかしい。例えば、著者の文章は「妄想」だと云われることがあるが、これはたぶんちがう。著者の頭が狂っていて、妄想を書き連ねているのではないのだ。むしろ、正気からそのようなものに限りなく近づいていくため、著者の特異な「言語感覚」、あるいは「言語操作法」があるのではないか。本書では哲学の用語が頻出するが、それはむしろ使われているだけだ。なつかしいポモ(ポスト・モダン)の用語を使えば、著者はシニフィアンを「妄想的に」使って、シニフィエをどんどん希薄化させていくのである。だから、著者の紡ぎだす「妄想」に、妄想本来のもつロジック(妄想にもロジックはある)を読み込んではいけないのではないか。それは著者の仕掛けた地雷のようなものであり、踏んづけて爆死した馬鹿者を笑うのは著者なのである。ただ、そうしてカモフラージュはされているが、一見ルサンチマンにドライブされていてじつは意図的、のように見える著者のそのルサンチマンは、それこそ実際に著者が感じているルサンチマンに他ならないのだろうとは思う。もちろんそれは、文学としてむしろ正統的であろうし、何も悪いことではない。
 別の言い方をしてみると、著者の文学でいちばん危険なところは、その言葉が立ち上がってくるその地点の過激性であろう。ここから言葉が出てくるとき、著者は「発狂」スレスレになると云ってもいい。それは、言葉の意味(シニフィエ)から、近づいていくことはむずかしい。むしろ、音楽を聴くように、それを「体感」するように、読んでみる必要がある。
 ちなみに、本書の小説部分はいま書いたとおりであるが、併録された「種明かし」みたいな文章は、じつに「フツー」の文章なので間違ってはいけない。これは著者が「頭でわかって」書いている文章である。小説部分の「深さ」はここにはないので、それは注意すべきであろう。ちなみに、自分はこの併録された文章をおもしろくは読むけれど、特に感心もしないことは断っておこう。著者が柄谷行人吉本隆明を批判し、東浩紀を罵倒しようが、どうでもいいことである。その意味で、かかる著者の(「文学的」)努力は、特に同情できない。著者のすごいところは、こんなところにはないのである。
 しかしこの三部作、どうして文庫化されないのか? これはおかしくないか。