再び柳沼重剛の好著

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

語学者の散歩道 (岩波現代文庫)

柳沼重剛の学海余滴を読むのは二冊目で、前著(id:obelisk1:20080529)に劣らず、これも楽しい本だった。そもそも西洋古典学自体どこか浮世離れした学問だから、陳腐な言い方ではあるが、現実の埃っぽい風の吹いていない、泰然たる気分の中でしばし時を過せるというものである。
 と言うのとちょっと矛盾するかもしれないが、図らずも役に立ってしまう文章もあった。「ギリシア語・ラテン語を学んで日本語を考える」という一文なのであるが、外国語を学ぶことが、母国語の文章に対して意識的になるきっかけを作るという例である。それは、著者が英国人の通訳をしているとき、もとの英語の話にはない、「ですから」とか「ですが」とか「つまり」とか「で」とか、そういうあまり意味のはっきりしない「つなぎ言葉」を、どうしても挿入したくなってしまったという話であった。著者によれば、ギリシア語はこういう言葉(particleというそうだ)、例えばgar,men,deなどが多くて、逆にラテン語は正反対らしい。近代語だと英語は少なく、ドイツ語は多く、フランス語はその中間ぐらいだという。これは盲点で、ちなみに自分はこういうのを使いたい方だなと思った。
 それからもう一つ蒙を啓かれたのは、ギリシア語とラテン語の発想の違いとでもいうようなもので、以下引用する。
「例えばギリシア人なら、『彼がこの道を選んだのは国を愛しているからである』と普通は言い、演説の中でだったら『彼がこの道を選んだということは、彼が国を愛しているということをはっきり顕しているのだ』と少々儀ばって言うところを、ローマ人に書かせたら、つまりラテン語の書きことばでは、『彼のこの道の選択は、彼の愛国的態度の明白なる表明である』と言いそうだ、という違いが両者にはある。」
日本語の和文脈と漢文脈の違いを、ちょっと思わせる話である。