自然な建築

自然な建築 (岩波新書)

自然な建築 (岩波新書)

建築に関してはまったくの門外漢であるし、また系統立てて勉強しようという気もあるわけではないが、建築に関する一般向けの本は、たいていエンターテイメントとして読めると思っている。(例えば五十嵐太郎井上章一の一連の著書など。)何が面白いのか考えてみると、建築家というのはもちろんクリエーターであるばかりか、クライアントがいる以上、また金銭に大きく関わる職業である以上、時代の動向に(良かれ悪しかれ)敏感であらざるを得ない、という点がある。そればかりか、理念が強く求められもするから、現代思想的なセンスも要求されることが多い。(例えば「ポストモダン」という語は、もともと建築というジャンルで最初に用いられた筈である。『隠喩としての建築』なんて本もありましたよね。)著者もまた、その系譜に属する建築家なのだと思う。
 この本は、建築家としての著者が、己の仕事とそのコンセプトを語ったものと言える。著者は、建築(いや文化さえも)としての二十世紀を一言でいうと、「コンクリートの世紀」だとする。そして、そこから脱却する必要を感じ、己なりに試みた成果をここで語っている。石、木、土、竹、和紙といった、忘れられつつある素材を、昔ながらの(それはそれで精度の高い)技術と新しい技術を組み合わせながら、「自然な」形で用いる建築――そんな風に纏められるだろうか。それにしても、(著者のいうとおり)写真では建築は伝わらないとはいいながら、写真で観る著者の設計した建築は魅力的なものが多く、とりわけ栃木県那須町の「石の美術館」などは、門外漢をして、実物を実見してみたいとすら思わしめた。
 少し話はずれるが、ローカル線の車窓などから見る日本の田舎の風景の中に、大手住宅メーカーの新建材の家があると、なんともいえない気分になる。田舎の人だって都会風の家に住みたいのだろうし、それを咎めることなど誰にもできないだろうが、それこそなにか「不自然な」感じがすることは否めない。我々には、風景を見る、という慣習が欠如しているのだ。繰言ではあるが。
定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築

定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築