まなざしの人間関係―視線の作法 (講談社現代新書 (641))
- 作者: 井上忠司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1982/01
- メディア: 新書
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「どこへ行っても出会う、かれら〔イタリア人〕の強じんなまなざしに、当初わたし〔著者〕は、しばしば閉口した。わたしには、それに耐えるだけでなにがしかの努力が必要であったが、さらにかれらをにらみかえすのは、なにがしかの勇気を必要としたほどであった。」
というのである。また、日本人の或る大学教授が、アメリカ人の生徒の相談の相談にのった折、生徒に直角に座り、話をよく聞くため目をつぶって生徒の話を聞いていたところ、アメリカ人の生徒は教授に無視されたと思ったそうである。まあこれなどは、我々も既に教授の態度が変なような気もするが、西洋人の作法として、話をする時は相手の目を見てするというのが文化になっていることを、如実に示しているといえよう。だから、日本人にとっては、二人ならんでしゃべりながら歩くというのは、別になんでもないことだが、西洋人はこれがやりにくいらしい。つい相手の前に出て、向かい合ってしまうことが多い、というのは、日本人には微笑させられる光景かも知れない。
おもしろいのは、ラテン・アメリカの人たちはアメリカ人よりもっと対人距離が近いらしくて、アメリカ人もラテン・アメリカの人としゃべるときは、圧迫感を感じるという。アラブ人なども対人距離が近いらしい。
それから、日本語には「目上」とか「目下」という言葉があり、例えば会社の上司が座っているのに、自分だけ立って話をするのはどこか無作法に感じられるが、アメリカなどでは、地位の高いことを示すのは、どこか「ゆったりとした」「リラックスした」態度だというのであり、例えば、地位が高い人ほど、ゆったりとした椅子に座り、足を組んだりして、これを示すのだそうである。
考えてみれば、「まなざし」というのは対人関係の基本であり、この点から見た文化というのは、まだまだ掘り下げることができるかとも思う。著者も、赤面恐怖症が日本人にとりわけ多く見られることについて、これらの論点との関係を指摘している。本書の(古い版の)表紙には仏像の絵が印刷してあるが、仏像のまなざしなんていうのも、結構面白いテーマかも知れない。