白洲正子と繊細な日本の美

一時起った白洲正子ブームがいまも続いているかは知らないが、そのブームも当然のことだったと思う。日本の美の姿を書き続けてきた人として、白洲正子から我々が学んできたことはきわめて多い。それにしても、白洲の送ったような美的生活から、自分が遠いことは限りないのであって、実際、白洲の書いているような日本人の繊細な美意識というものは、今でもどれほど失われずに残っているものなのだろうか。いや、少なくとも自分にとってどうなのだろうと、思わざるを得ないのだ。美術館には行って、日本のものを見たりもするのだが、白洲のいうとおり、日本の美というのは日常で使ってみなければわからないものだとすると、ほとんどお手上げである。すると、貧乏人には美は無縁かという、よくある通俗な議論になってしまうのだろうか。いや、白洲流にいえば、いまそこいらで手に入るものの中に美を見出せ、ということだろうが、それこそマス・プロダクションによって製造された既製品の中に、そのような繊細な美があるはずも殆どなさそうであるし、本書に出てくるような匠たちは今でも存在するのであろうが(そこのところも怪しくなっているのかも知れないが)、我々にはなかなか無縁な存在でもあろう。まこと、繊細な日本の美というものがこれからも生き残っていくのかというのは、痛切に知りたいことであるし、もし姿を変えるというのなら、どういう形態で残っていくものなのであろう。オタクとかなんとかいうあたりもそのような繊細な感受性とは無縁でないのだろうが、それは果して、見て見尽くすところに現れる美というものまで、昇華され得るものなのであろうか。