中沢新一と『鳥の仏教』

鳥の仏教

鳥の仏教

この本は『鳥のダルマのすばらしい花環』という、元はチベット語で書かれた仏教書を中沢新一が訳したものに、中沢の解説を附したものである。それに拠ると、「大乗仏教の経典を模して書かれた、いわゆるインド原典のない『偽経典』であることは歴然としていましたし、書かれたのもそう古い時代のことではなく、早くともせいぜい十七世紀か十八世紀、ことによるとさらに新しく十九世紀の初期ではないか、と推定できるものでした」という。いわば「あやしい来歴」の仏教書なのであるが、その内容は素晴しく、大乗仏教のエッセンスを、易しくわかりやすい「鳥たちの言葉」で説いて間然とするところがない。まあ自分などにこの本の価値を具体的に語れる力などないが、素朴に言っておけば、本当に心に沁みるお経で、繰返し読まされたのだった。中沢は解説でさらに踏み込んで、このお経の底にある、(現代では「知的に未熟」とされる)アニミズムを積極的に評価し、「伝統的な仏教そのものが『鳥の仏教』に学んで、いままでのような人間圏ばかりに意を注ぐ仏教というものから真の脱却を果たして、地球上のすべての生命圏を包み込む力を回復した、惑星的な仏教として生まれ変わらなければならない時代が来ているのではないだろうか」とすら語っている。まったく気宇壮大な思想ではないか。
 これなどと比べると、最近たまたま秋月龍萊の『誤解された仏教』を読んだのだが、実際に悟りを開かれたという秋月師の「悟りを開かねば仏教ではない」という悟り主義、「偽仏教者」に対する喝は一々御尤もなのだが、それすらコップの中の嵐のように思えてしまう。悟りを開いてすら仏教界の中で自閉し、読んでも生きる指針を見出せない宗教――本当の秋月師の仏教はそこに留まるものではないのであろうが、そうも読めてしまう風通しの悪さは、現代における宗教のむつかしさを象徴しているようにも見える。なんとか、もう一歩外へ。仏教が現代に果たしうる役割は、まだまだあるように思えるし、中沢新一の存在がますます貴重になっている所以でもある。
誤解された仏教 (講談社学術文庫)

誤解された仏教 (講談社学術文庫)