大澤社会学とオウム真理教

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

原本は一九九六年にちくま新書として出たものだが、個人的なことをいうと、その時点では買いそびれてしまっていた。大澤真幸のおもしろさがまだ分っていなかったのである。その後この本の存在を知り、とても読みたくなったのだが、その時は既に品切れになっていて、入手不可能だった。だから、本書の再刊はうれしく、まさにむさぼり読ませてもらったのである。
 大澤のおもしろさは、卑俗な現象を、とても抽象的な言葉で、理論的に徹底して解剖していくところにあるといえようか。まあ、それが時には理論化に走りすぎ、議論の空中楼閣を築いているように思われることもあるのだが、この本は、一九九五年のオウム真理教の事件を取り上げながら、現象と理論の記述が、鋭い緊張感を保ちながら展開されていく。読みどころはほとんど全篇に亙っているので、一部を切り出すようなことはしないが、細部では、個人的には科学とオカルトの関係を分析した部分などがとりわけ興味深かった。また、何の不自由もない人がしかし心の空虚さを覚えていて、そのような人がオウムに入り、そのような否定的な自分をさらに否定することによって(否定の否定)、逆説的に肯定感が生じてくるという指摘は、オウムが「単なるバカ」(浅田彰)でないことを示して、怖ろしいとすら思われる。
 大澤は本書で戦後を二分し、理想の時代から虚構の時代へ(さらには別著で、その後の不可能性への時代へ)の推移を指摘しているが、本書と現在の関係として、今の「不可解な殺人」(大澤がそういう言い方をしているわけではないが)とオウム事件との関連性を言っている。ここで「不可解な殺人」というのは、殺された者が殺した者にとって、ほとんど偶然に選ばれたようにしか見えない殺人のことで、誰もが気付いているように、最近非常に目立つようになっている(例えば秋葉原連続殺傷事件)のであるが、これはまさしく、地下鉄サリン事件と同じだ、というのだ。殺されるのは誰でもかまわない。このような事件は大変わかりにくく思われるのだが、大澤の議論でも、それが完全に言い当てられているような気はしない。けれども、ここに鍵がある、という大澤の直感はそのとおりだと思うし、大澤社会学が机上の空論でないことを示しているのだとも思うのだ。