フッサール・セレクション

フッサール・セレクション (平凡社ライブラリー)

フッサール・セレクション (平凡社ライブラリー)

本書はフッサールの著作の中から、テーマ別に文章を切り出してきて、継ぎはぎしてつくられたものであるが、記述の流れとでもいうべきは犠牲になるけれども、個々の概念についての理解については、はっきりしてくるようだ。
 自分が理解したところを大雑把に書いてみると、まずフッサールは、経験したもの(しばしば「自然」と呼ばれる)を、(自分流にいうと)精神の超越論的な「構造」のようなもの(カントでいう超越論的統覚に当る)が<構成>して、知覚が成立すると考える(一種の独我論)。その「構造」のようなものを彼は様々に表現しているのであるが、ひとまず<純粋意識>としておくと、それが経験に向かうのが<志向性>の働きである。その<純粋意識>を取り出し、理解する方法が<現象学的還元>あるいは<エポケー>であって、自然的な意識を<括弧に入れる>というやり方である。彼はこんな風に述べている。「あらゆるものを放棄することは、あらゆるものを獲得することであり、世界をラジカルに棄却することは、究極的に真なる現実を観取し、それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である。」
 独我論アポリアである「間主観性」の問題については、ここにはほとんど記述はないが、実際のところ、フッサールはどう考えていたのだろう。よくは知らないが、たぶん解決できなかったであろうことは予想がつく。これは「他者」の問題*1と深い関係があるが、二十世紀の哲学で大いに論じられ、それなりの進展があったにもかかわらず、決着をみなかった問題でもあるから。

*1:フッサールは現実は<構成>されるものと考え、「他者」意識は事後に作られるものとしているが、個体発生的な視点に拠れば、母親と乳幼児との関係を見てもわかるように、最初に「コミュニケーション」があったのではなかろうか。「自我」意識はその後に形成されるように思われるが、自我の明晰を前提とするフッサールには、到底受け入れられない考えではあろう。そういう意味では、フッサールデカルトの後継者である。