もし身に覚えがなく「痴漢!」と言われたら

タイトルの「痴漢」に限らず、誰でも突然に、冤罪に陥し入れられる可能性がある、という本である。最近のニュースを見ていると、嫌でもこういうことに関心を持たざるを得ない。警察も検察も裁判官もマスコミも、正義の味方でも何でもない、ということが判ってしまった。(そんなことを素朴に疑問にも思ってこなかった当方がナイーヴだったのだ。)だから、本書の内容は、特に驚くようなことは何も書いてなかった。それでも、寂しい気持ちは残る。
 細部に気になったところが幾つかある。著者はジャーナリスト畑の人だが、自分が最も怖ろしいと思うのは、警察や検察のリークを裏も取らず垂れ流す、マスメディアに他ならない。松本サリン事件のときの報道が忘れられないのだ。あのとき、最初に報じられた人物が犯人だと、日本中誰もが思ったことだろう。自分も例外ではなかったのだが、オウム真理教の信者が犯人だと分っても、謝罪したメディアがあっただろうか。著者は別の著作で、冤罪に加担した警察関係者を実名で糾弾したそうだが、それはそれで勇気ある行為には違いないけれども、虚偽の報道をしたジャーナリストを実名で書くことができるだろうか。身内に甘いのは、何も警察や検察だけではない。そんなことも、改めて云うほどの新規さでもないだろうが。
 しかし、もし身に覚えなく「痴漢!」と言われたらどうするか、ということについての実践的なアドバイスは、確かに役に立つだろう。(まあ、田舎に住む者としては、満員電車に乗る機会はごく少ないのではあるが。)とにかく落ち着いて、名刺を渡すとよい、ということらしい。逃げも隠れもしないということを、伝えるわけである。それから、「私人逮捕」などという逮捕の方法があるということも、知らなかった。これは知っておいて損はないと思う。例えば万引き犯を捕まえたときの店員が、既に「逮捕」していたことになる、という仕組みである。電車内の痴漢も、痴漢を訴えられた人物が駅事務室に行けば、「私人逮捕」されたことになる。こうなると、もう裁判が終るまでどうしようもない。
 本書の最後の一節を引用しよう。冤罪に遭われた人の言葉である。「一九七〇年代、八〇年代のほうが、そういう問題について社会はもっと義憤を感じていました。今は、冤罪が明らかになっても、社会が怒らなくなっています。」

追記

冤罪とも関係してくるのだが、現場の警察官のレヴェルの低下というのは、ちょっと虚を突かれたけれども、事実の面もあるらしい。マニュアル捜査官が増えて、初動捜査の基本がきちんと出来ていないというのだが、ここでも「またか」という感じで、腑に落ちてしまうくらいである。マニュアル偏重といえば、我々も人ごとではない問題だ。そうして、警察による証拠の偽造などは、遣り口が巧妙になっていっているらしい。いったい何をやっているのだろうか。