斎藤環の男女格差本

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

この題名では、著者が斎藤環でなければ、本書は買わなかっただろう。取りあえず、第二章の「男女格差本はなぜトンデモ化するのか」で、男女の差を脳の差として説明する本は、ほぼトンデモだということを立証しており、こういう啓蒙活動がきちんと行われることは確かに必要である。しかし、第三章「すべての結婚はなぜ不幸なのか」とか、第四章「食べ過ぎる女、ひきこもる男」などというのは、章の題を見ても、自分の問題意識に引っかかってこず、ほとんどウンザリさせられた。正直言って、本書のモチーフである、男は「所有」、女は「関係」というのも、それはそうかも知れないが、自分にはどうでもいい、という感じである。(しかし、散々このテーゼを繰り返しておきながら、終章で、「所有原理」「関係原理」とジェンダーの関係は絶対的でも固定的でもないなどと、トーンダウンしてみせるのは、ちょっと卑怯ではないか。)
 といって、自分にとって本書がまったくのダメ本であったかというと、そうでもない。「若者文化」に詳しい著者であるから、個々の具体的事例(特に「おたく」や「腐女子」のそれ)には、なかなか興味深いものがあった。そして、男女の身体感の違いについてさらりと語られた部分には、まったく驚かさせられたのである。

たとえば女性はしばしば「もうからだがぼろぼろ」といった言い方をする。そういう表現を実際に口にするかどうかは別として、ほとんどの女性はこの表現に共感できるだろう。ところが、女性には驚きかもしれないが、一般に男性はこの表現を理解できない。ある種の衰弱や疲労を「ぼろぼろ」と表現するのはわかるが、身体がぼろぼろとはどんな感じなのかが、実感的にどうしても理解できないのだ。

男性にとって身体は「透明な」ものであり、痛みや痒みなどがあってようやく存在し始める、というのは、自分の実感からしても、まったくその通りである。女性のいう、身体は「くっついちゃってる」「容れ物みたい」というのは、確かにそうなのかも知れない。リストカットをするのが八割がた女性だというのも、そうするとわかるような気がする。
 あと、主題からは少し離れているかも知れないが、「おとこソファー」というのも面白い。「おとこソファー」というのは、「仕事で疲れ切って帰宅した独り身の女性を優しく包み込み、癒してくれる素敵な家具」だそうである。女性の夢だろうか。ああ、自分など、到底そんなものにはなれそうもないが。