小坂井敏晶『人が人を裁くということ』

人が人を裁くということ (岩波新書)

人が人を裁くということ (岩波新書)

最近読んだ『民族という虚構』がスリリングだったので、「おお、新書も書いておられる」と思って読んでみた。結論からいうと、納得できない点も多々あるが、根源的なことをしきりと考えさせて已まないという意味で、とてもいい本だと思った。
 まず納得できないというのは、こんな感じである。引用する。
「ある事実認定を正しいと認めるためには、裁判所の解釈と事実自体が二つの別な内容として存在し、かつ両者の間に齟齬がないと証明される必要がある。しかし事実自体は誰にもわからない。すでに述べたように、警察・検察・弁護側にはそれぞれの推論や主張があり、裁判官には裁判官の判断がある。それ以外にマスコミや世間の意見もある。これら多様な見解の中で最も事実に近いと定義(二字傍点)されるのが裁判所の判決だ。裁判が真実を究明したかどうかを判定すべき生(なま)の事実はわからない。」(p.53)
これが正しい、すなわち「事実自体は誰にもわからず、裁判官の判決が事実に最も近いと定義される」というのなら、「冤罪」ということはまったくの無意味である。そして、本書の第二部は、「冤罪」の起きる仕組みを徹底的かつ真摯に解剖し、さらに著者は、明らかに「冤罪」というものを糾弾しているのである。
また、著者はこんなことも言っている。
「自由だから責任が発生するのではない。逆に、我々は責任者を見つけねばならないから、つまり、事件のけじめをつける必要があるから、行為者が自由であり、意志によって行為がなされたと社会が宣言するのである。」(p.159)
まったくその通りである。しかし自分は「それだからこそ我々には自由意志が必要なのであり、実際に自由なのである」という一文を、付け加えるべきだと思うのだ。それは我々に実際に(脳科学的に?)「自由意志」が「存在」するかどうかとは、関係がないのだ。
 以上で、逆説でいうのではなく、本書のすばらしさは明らかだと思う。こうやって根源的に考えさせてくれるような本は、滅多にない。本書の最後で明らかになることだが、本書のライトモチーフは、ひとつの「真実」が世界を覆うということの危険性の指摘にある。その「ひとつの真実」を著者は「常識」と呼び、「常識」からの脱却を唱導する。自分ならそれを「常識」とは呼ばないが、著者の言いたいことは、わかるのである。