クリプキと「名指し」の根源性について

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

本書を読んで、いくつかの妄想が浮かんできたので、ちょっと書いておく。
(1)可能世界とは、想像力の別名であること。
(2)一文だけ取り上げて文の真偽は決定できず、文の真偽は常に文脈に依存する、ということ。
 後者について少し述べておく。例えば「2+3=5」という文(?)は、常にこの文だけで真であるように思われるかも知れない。しかしこれは、プラス記号が四則演算における和をあらわしているという暗黙の文脈に依存しているのであり、「2+3=3」という文も、プラス記号が前後の数字の大きい方を取るという演算であると定義してある文脈では、もちろん真であるわけだ。このように、文の真偽はかならず文脈に依存する。そして、敢て云っておけば、ある文章を複数の人間が読むとき、その文章を読んで理解される文脈は、明らかに各自によって異なる。(このことは、たとえ数学においても同じである。でなければ、数学書を読んで理解できないことがあるということが、あり得なくなる。)とすると、真理というものは存在しないということになるのか。このような結論は驚くべきことではないが、この結論はもちろん間違っている。驚くべきは、我々が文章を読んで(その文章にも拠るが、だいたいにおいて)正しく文脈を理解するし、真理は存在することなのである。
 このことは、本書で延々と分析されている、名指しの問題にも関わってくる。名指しは、本書でやっているような「分析的な」手法では、捉え尽くしがたいのである。それは例えば「無意識」といった認識論の方面からもアプローチされねばならず、敢て云えばもっと「どろどろした」、明晰でない謎なのだ。それは、名指しということの根源性と係ってくるのである。