渡辺京二のドストエフスキー論

本書を読んではっきりとわかったが、前から薄々は気づいていたのだけれど、自分はドストエフスキーがまったく読めていない。目は通したが、どういうところに着目したらよいのか、そのあたりがわかっていなかった。(『カラマーゾフの兄弟』など、ミステリーとして読んでいた体たらくである。)本に正しい読み方はないと云えば尤もらしいが、こちらに或る構えがあれば、ドストエフスキーは無限に読み込めるのである。自分は個人的に最近、政治や国家ということが気になってきたのだが、すなわち、ドストエフスキーのような人間の魂を扱う作家は、それらの antipode (対蹠点)として、その政治や国家というものを照射するのである。例えば「民衆」という言葉。これは自分が「民衆」というものから切り離されているという意識なしには、ふつうは浮上してこない言葉だろう。ドストエフスキーがロシアの民衆に対し、どのような感覚をもっていたか、本書は『作家の日記』を読み込むことで、そのあたりを解明しようとしている。例えば民衆は、愚かなのか、それとも賢明なのか。いやいや、そんな視点からは民衆は捉えられないというのだ。
 本書は渡辺京二の出発点である。最近、山崎行太郎氏がブログで書いておられたが、日本人はドストエフスキーが好きだったと。本書を読んでいると、ドストエフスキーの捉えるロシアと進んだ西欧という図式が、日本と西欧という図式に似ているからこそ、日本人はドストエフスキーが好きだったのかもしれないと思った。小林秀雄ドストエフスキー論も、合わせて読んでみたいと考えている。