『なめらかな社会とその敵』を読んで、雑感

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

ネットなどの評判からして、読んで否定的な感想を持つのではないかと予想していたが、さほどでもなかった。いいところもあると思う。ただ、どうして本書の記述する社会が「なめらか」なのかが、そもそもよくわからなかった。例えば伝播投資貨幣PICSY、分人民主主義Divicracyがどうなめらかなのか。まあ、そんなことはどうでもいいかも知れない。
 ちょっとした感想だけ書いておく。まず伝播投資貨幣PICSYだが、これの実現のためには、取引の記録をもれなく電子化して、計算のために蓄積しておかねばならない。それが、過去のいつまでに及ぶかも判明でないし、そもそもそうなると、貨幣の匿名性が失われてしまう。もちろん今でもクレジットカードによる決済はそのような性格を持つが、それが全面化するのはどうしたものだろう。また、計算は膨大なネットワークについてのものとなるので、おそらくこれはNP問題であり、高速コンピューターでも計算時間が発散してしまうだろう(ただ、これについては自分ははっきりしたことは言えない。NP問題かどうかは、きちんと証明されねばならない)。これは量子コンピューターが実現すれば解決されるかも知れないが、NP問題がもし解かれるとすれば、その波及効果は本書などの及ぶところではなく、世界が完全に変ってしまうにちがいない。
 また、一票を分割してすべての人間に対して投票する、分人民主主義Divicracyであるが、これによって独裁政治から民主政治まで、あらゆる政治形態を取り得るということであるけれども、自分にはこれがまったくわからない。この制度では万人が代議士になれる可能性があるそうだが、ある程度定員というものは必要だろう。そのとき、最大得票を取れば独裁者ということなのであろうか。そうではあるまい、どのような定員にせよ、最大得票者は常に存在するのだから。では、圧倒的な得票を取れば独裁者なのか。そうすると、他の代議士たちの存在形態はどうなるのか。さらに云えば、こうなると職業政治家というものは存在しなくなるわけだが(存在すれば、この制度の意味はない)、そうすると、官僚の独裁国家になるに決っているのではないか。現在の政治家の存在理由は、官僚をコントロールすることにあるとすら云えるからだ。そして我々は、基本的に政治家に常識的な政治以上のものを求めていないのである。この制度になれば、望まれる具体的な構想を持った学者が、代議士になればいいということになる。しかし、常識的にこれは馬鹿げている。学者には、そんな政治をやるような暇はないからだ。
 それからもうひとつ。人間から権力欲がなくなることはあり得ない。そこのところを、本書は完全にオミットしている。インターネットによってフラット化されたように見える社会でも、それが行き着くことは決してない。
 こう書いてくると、いかにも本書をつまらなく読んだように見えるかも知れないが、そういうわけではないのである。変な話だが、著者はアナロジー的思考の出来る人だ。こういう人は、切断的な思考様式を持つ人間には極めて胡散臭く見えてしまうのだが、実際は貴重な人たちなのである。本書は、小説のように読んでもいいのだ。
 最後に、本書の数式についてだが、基本的に理系の大学生ならば理解できる程度のものであり、「あざとい」という程のものではない。とにかくネットを見ていると、様々なところで、本書に対するやっかみやルサンチマンが炸裂しているので、かなわない。そんなにムキになって否定すべき本ではなく、寛容に見るべきではないだろうか。そして、ニューエイジっぽい生物学的比喩も、一種の冗談として、真面目に受け取らないほうがいいのではないか*1。それを措いても、得るところがある本だと思う。

*1:ただしここは、判断のむずかしいところである。それがベルクソンドゥルーズに繋がるものなら、自分にはちょっと話がちがってくる。