天平内乱期

女帝と道鏡  天平末葉の政治と文化 (講談社学術文庫)

女帝と道鏡 天平末葉の政治と文化 (講談社学術文庫)

引用する。
孝謙女帝と道鏡の短い執政時代は、「天平内乱期が生みだした特異な政治形姿にほかならず、いわば聖武以来の専制のあだ花であった。仏教政治などともいわれているが、その名に価する実態はほとんどみとめられず、二人が歴史にのこしたものは、わずかに南都の西大寺、西隆寺などの伽藍にすぎない。」
「しかも、これらの巨大な造寺事業は、社会の底辺に内在した諸矛盾をいっそう深めた。すなわち土豪、有力農民の台頭をうながし、他方で一般農民の窮状を救いがたいものにしたのである。」


 ※藤原仲麻呂の叛乱のところに出てくる、「美濃少掾国連嶋主も仲麻呂に味方したために刑死の憂き目にあった」という記述は、各務原市民としては目が留まるところである。村国嶋主(むらくにのしまぬし)は、壬申の乱で活躍した美濃の小豪族である村国男依(むらくにのおより)の孫。ウィキペディアに拠れば、嶋主は朝廷に叛旗を翻したわけではなく、刑死は朝廷によって誤ってなされたもので、後で名誉の回復が行なわれたという(wikipedia:村国嶋主)。