あるべき「共産主義」というのはあるのか

マルクスと歴史の現実 (平凡社ライブラリー)

マルクスと歴史の現実 (平凡社ライブラリー)

ソヴィエト連邦崩壊を目前としながら、廣松渉マルクス擁護のために(素人目には、それはあまり成功しているように見えないが)作った本ということであるが、マルクスの時代から以降ロシア革命までの左翼の歴史を、理論的な配慮をしながら叙述した歴史書、というように受け取った。個人的には、マルクスの死後、レーニンに至るまでの知識の整理に役に立った。
 特に興味深かったのは、マルクスにおいて「共産主義」(彼は「社会主義」という言葉はほとんど用いていないらしい)とはどういう感覚で受け留められていたのか、という点である。廣松を引用すると、
マルクスおよびエンゲルスは、いわゆる空想的社会主義者たちとは違って、未来社会の詳細な見取図は描かない態度で一貫しております。われわれ人間のイマジネーションというか構想力は、歴史的未来に対してあまりにも射程が短すぎるということを彼らは理解しておりました。私どもは共産主義革命の、言うなれば存在論的な意義を自覚化すれば足るのであって、共産主義社会の未来像そのものをくわしく訪ねる必要はないと思います。」
とあるが、まさしくここなのだ。マルクスエンゲルスもその他誰でも、(天下り的に)「共産主義」は実現されねばならないが、それがどのようなものか知らないのである。共産主義は、いわば否定神学的に保障されているという構図である。これが、ソ連崩壊以後にマルクスを読み出した者にとって、きわめて判りにくかった点なのだ。マルクスの死以降、どのような「共産主義」(あるいは「社会主義」)を実現すべきかで怖ろしいほど紛糾し、また多くの権力闘争があったのも、むべなるかな、といいたくなる。いまでも「共産主義」を捨てられない人がいるとすれば、自分の「共産主義」は大丈夫だ、という思い込みを捨てられないためであろう。