情況としての画像―高度資本主義下のテレビ (河出文庫―文芸コレクション)
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/10
- メディア: 文庫
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この本は、ちょうど昭和の終りから平成の初めにかけての、吉本隆明のテレビ時評を纏めたものだ。当り前かも知れないが、実に時代の雰囲気をよく捉えており、テレビを視なかった自分でも、なつかしい感じがするほどだ。また、映像論や社会時評としても、このようにテレビを用いてこれほどの質を保っているのは稀だと思う。しかし、そのような二義的なことばかりではなく、気づきにくい点で、テレビそのものの意義を見出し論じているのは、吉本隆明の功績であろう。例えば、タモリやさんまやたけし論。いやいや、本当に面白いのは、テレビで野球やスポーツを視る楽しさなどについて、視聴者の心の動きをみごとに解剖してみせたりするところだ。球場で野球を観るのと、テレビで視るのでは、楽しみ方がが違うということは、当り前かも知れないが、なかなか言えることではない。(野球は球場で観るにかぎる、テレビ観戦などは邪道だ、などと偉そうに言わないところが、吉本さんの素晴しいところだ。)
しかしまあ、このようなことが書けるのも、テレビを視るだけではダメだということは、やはり言っておく必要があるだろう。あらゆることを徹底して考え抜いてきたからこそ、テレビを視てそこから沢山のことが得られるのだ。もちろん、たださみしいからテレビをつけておくというのを、非難するつもりはない。テレビがなければ遣り切れない人がたくさん存在するというのが、我々の現実であるのは間違いない。
ところで、自分はナンシー関という人をを読んだことがないのだが、吉本隆明と比較すると、テレビに対する切り口として、どう同じで、どう違うのだろうか。この辺もおもしろそうだが、自分の能力を超えそうだけれども。