著者は、「決まり文句」や「隠語(
ジャーゴン)」を使うことによって、何も中身のあることを言っていないのに、何か言った気になる風潮を厳しく批判しているが、自分を省みても、例えば「リアル」などという決まり文句をつい使いたくなってしまうということがあるので、語の命を殺さないよう気をつけねばと思わされた。しかし、著者の
ハイデガーに対する批判、嘲弄はまったく手厳しいもので、ほとんど全否定なのには驚かされた。
ハイデガーの「世人(ダス・マン)」批判、その大衆に対する尊大な態度が、気に入らないようにも見える。(勿論
ハイデガーに対しても、内容的な批判が主なのではあるが。例えば「存在的」と「
存在論的」の区別に対する批判など。)確かに
ハイデガーは偉そうな感じだ。実際、「頽落」などという語を一般人に投げつけるなど、自分の生き方こそ最高で、他人はカスだという気がなければ、それは到底口にできない語だろう。「黒い森」の中で、杣人と「空談」ならざる対話を交す自分こそ、最高の精神的存在だ、というわけである。
アドルノは
ハイデガーの
ナチス問題をあまり強調しないが、
ハイデガーの無批判な「死」の称揚は、厳しく批判している。それが何に繋がっていったのか、と。