多木浩二の優れた都市論

都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))

都市の政治学 (岩波新書 新赤版 (366))

都市論であるのは確かにそうなのだが、あまり普通の(?)都市論らしくもないかも知れない。題名に「政治学」とあるが、いわゆる政治と都市の関係が描かれた書物ではなくて、都市を貫く「力」のようなものを記述した、とでもいう意味だと思う。第二章「都市の政治学」に拠れば、このような「力」は超越的なものではなく、我々の生活を受動的な「ゲーム」とするような、無主体的な統辞論的構造の別名、とでもなるだろうか。
 だが、そんなことはまあいい。本書で最も刺激的だったのは、一見素朴な現象学的記述ともいえる、「都市の現在」という題の第一章である。例えば著者は、巨大都市の郊外ニュータウンをして、「個人間の性愛と子供との関係を含んだ核家族の一大集団」だと述べている。「いってみればこの巨大な居住空間を発生させている社会的必要条件のひとつは、恋愛のイデオロギーなのである。」まさしくその通りではないか。また、ハウステンボスなどを例に、テーマ・パークとしての都市を論じているが、そこで日本の場合「住宅ですら異様なまでに移植的な様式で、生活している実例がある。テーマ・パーク的なゲーム性はすでに都市に浸透している」とあるが、田舎である自分の家の近所も、新築の家は、ほとんどそのような「国籍不明の」住宅になっている。(それは日本全国そうで、国内を観光してみると、相当の山奥でも、そんな風になっているのは同じだ。)
 こういう本を読んでいると内心浮かび上がってくるのは、やはり地元のことである。「どんな地方都市でも、それらの中心部、たとえば商業地区や駅周辺は、ほとんど同じモデルで作り替えられていった。地方都市は固有性を維持しようとするどころか、その喪失という反対方向に作用する力にさらされている」ともあるが、例えば岐阜である。JR岐阜駅前の再開発が遅蒔きながらなされ、どこにでもあるような新しい駅前になったが、以前の、これもどこにでもあるような寂れた駅前に比べると、県民として、やはり何となく明るい感じになったことを嬉しく思うような気分に、自然となってくる。「画一的だからいけない」などという気には、なれないのだ。繁華街である(であった?)柳ヶ瀬など、もうどうしようもない寂れようで、否定的な経緯でそうなったというよりは、単なる被忘却である。そこに「郊外」が出てくる。実際、自分の自宅周囲はまだ田舎っぽいが、国道沿いの便利な「郊外」までは、車ですぐであり、その恩恵に与ってないとはいえない。自分はあまり行かないが、みんなイオンのショッピング・モールで、フラヌール(遊歩者)していたい気持ちは、分らないでもないのだ。「郊外」については、まだまだ解明されていないことがかなりあると思う。これは、我々の人生に直結する大問題なのだ。
 さても、この本は少し古いながら、なかなかいいと思うのだけれども、嘗て話題になったとは聞かない(自分が知らないだけかもしれないが)。一時期の都市論ブームの中で、埋没してしまったのだろうか。