鹿島茂と吉本隆明

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

新書459吉本隆明1968 (平凡社新書)

著者と吉本隆明の組合せというのは意外な気がしたが、著者は若い頃、吉本主義者だったという。その著者がいま吉本を読んでみて、「ああ、おれは、この歳になっても、吉本主義者であったか」と確認するところから、本書は始まる。だからこれは、若い人に向けて、著者の世代がいかに初期の、すなわち『言語にとって美とはなにか』以前の吉本にショックを受けたかを語る、論評だと要約できるかも知れない。自分の世代はもう吉本を読まなくなったそれなので、初期の吉本の本をを普通に入手する環境になく、吉本の出自をベースにした丹念な解読は有難かったし、またとても面白くもあった。特に『高村光太郎』は偶々最近読んだので、芸術の普遍性と日本の後進性の間の葛藤に迫っていく吉本の鋭さは、著者の筆を通してよく分った。
 気になった点があるとすれば、構造的なものである。ここで著者がやっているのは、「初期の吉本は既に吉本で、後から見てもブレはない」ということであるが、これは東浩紀が(このままではないが、だいたい同じ意味で)指摘している通り、最近よく見られる、批評の紋切型である。「初期の吉本の偉さはわかった。では今は?」というのが我々の問いであろう。自分も確かに吉本はいいと思うが、正直言って、「知識人と大衆」という著者の着眼点と、同じところに感嘆しているわけではないような気がする。どちらかといえば自分は、「知識人と大衆」というよりも、「専門家と素人」という方が気になる。今は誰でも「専門家」であり、それに対して、知識人は「素人」たるべきではないか、というようなことだ。吉本はそういうことは言っていないだろうか?*1
 しかし、この本が面白いことは強調しておこう。実は、本書を読んで、自分の持っている吉本の初期の著作にも再びちょっと目を通してみたのだが、マルクス主義などの「死語」の羅列で、あらためてこれらに命を吹き込む前に、嫌になってしまった。これが我々の貧しさで、左翼の退潮とともに、事態の分析に用いる概念の類いまで葬り去ってしまったのは、どう考えてもよいことではない。本書はその意味で、政治を語れなくなった世代に対する、優れた啓蒙書にもなっている。もちろん「死語」といっても心ある研究者なら死語になどしていないのだから、そのためにも、本書のような本は充分存在意義があると思う。
マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

高村光太郎 (講談社文芸文庫)

高村光太郎 (講談社文芸文庫)

*1:例えば、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』などは、明らかに「素人」の企てではないだろうか。