荻上チキのメディア論

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

著者は、気鋭のメディア論者として力のある人だというのは分っていたので、迷わず読んでみた。きちんとしたメディア論として、まずは推奨できるレヴェルのものだと思う。
 それを踏まえて敢て云えば、本書は比較的ナマの素材が乏しく、今では常識的だとも思える思弁的分析が多くを占めているのは、個人的には少々退屈な印象も受けた。が、これも啓蒙的な言説と捉えれば、必ずしも短所とはいえないかもしれない。まあ自分のことを云ってしまえば、年齢のせいでもあろうか(耄碌したか)、最近メディア享受的に退屈を感じているところで、例えばゲームで遊んでいても「なんでこんなことをしなくてはいけないのだ」というような気分になったり、ブログを読んでいてもすぐに「馬鹿馬鹿しい」などと感じたりするから、当方の問題なのだろうとは思うが。
 自分語りついでに言っておけば、実は、本書を読む前に期待していたことがある。それは2ちゃんねるについてで、嘗ては自分も毎日2ちゃんねるを見る時期があったが、最近どうも2ちゃんねるを読んだ後味が悪くなり、もうひと月に一度も見なくなってしまった。その後味の悪さというか、なんともいえない「精神の薄汚さ」に堪えられなくなってきたのである。これは個々人の書き込みがどうというよりも、レスをずっと追っていく結果として生じる感想なのだ。似たような感想は別に2ちゃんねるに限らないが、自分がいま一番メディア論に期待するところがあるとすれば、そこのところの解明である。個々の書き込みにすべて「悪意」があるわけでもないのに、総体として「悪意」を感じざるを得ないのは、どうしてなのか。そういう問題意識からすると、最終章の「行為素」の集積をまとめて意味づける「ゲーム性」の指摘は、重要なことであるかもしれない。この種の「ゲーム性」は、倫理的にネガティヴな感情で主導されているように思われるからだ。ネットにおける「ネタ」的な脊髄反射の「悪意」。ネット世代の倫理は、一体どのようなものに収斂していくのであろうか。このような「悪意」を気にする方が、ナイーヴだということになるのであろうか。

読み返してみて

傲慢なことを言っているなと思う。まあ一度書いてしまったので残しておく積りだが、謙虚でなければ本を読んでも意味がないだろう。反省。