高瀬正仁の「わたしのオイラー」

著者の本は、名著『岡潔 数学の詩人』を読んだのが最初で、これには深く感銘を受けたのだった(id:obelisk1:20081029)。岡潔も凄いけれども、彼を語る著者もただ者ではないと感じたのだが、本書を読んで、その印象は間違ってなかったと知った。深い、含蓄のある数学が、やわらかい繊細な文体で語られる。
 副題にもあるように、本書は、著者なりのオイラー像を語ろうとしたものだという。周知のごとく、オイラーは、ガウスと共に、近代数学のすべての流れの発出点である高峰であるが、その膨大な業績(現時点ですら全集は八十巻ほどもあり、百年たってもまだ完結していない)の中から、無限解析(微積分)、数論、対数関数の多価性に絞って、数学が生まれてくるまさにそこのところに、焦点を当てている。特に数論と、対数についての部分がスリリングで、「数論はこんなところ(ディオファントスへのフェルマのコメント)から、オイラーが接ぎ木して始まったのか!」という感覚がおもしろいし、対数の多価性というのは、現代の教科書にスマートに記述されている*1のと殆ど反対から、オイラーが粘り強く生み出していった概念なのだというのは、感動的ですらある。その、暗中模索しながら、崩れないよう煉瓦を積み上げていくかのような建築の過程は、ぴたりと完成するや、美しさすら感じさせる。記号論理学などでは数学はトートロジーだとされるが、こういうことをいう奴は何もわかってないのだ。実際、数学は単なる論理的導出ではなく、途中でさまざまな新たな概念を導入したり、理論が豊穣になるように(「上手くいく」ように)建築していくものだというのは、まさしくこの例が示しているとおりなのである*2ライプニッツやベルヌーイ、そしてオイラーにとって、それまで存在していなかった、「虚数の対数」というものが存在していることはなぜか確信されており、それへ向けて理論が構築されていくのだ。これはだから、「発明」だといってよいくらいなのである。
 それから、少し細部の話になるが、複素解析の有名ないわゆる「オイラーの公式」(の特別な形)は、自然対数の底と、円周率と、虚数単位をひとつの式にまとめ、よく神秘的な「崇拝」の対象となっているが、オイラーはこれにちっとも感動などしていないし、ここには何も深い内容などないというのが正しい。オイラーが感動して「美しい発見」と呼んだのは、本書にいう「ベルヌーイの等式」だったというのは、注意すべき点かと思われる。
岡潔―数学の詩人 (岩波新書)

岡潔―数学の詩人 (岩波新書)

*1:例えば、高木貞治『解析概論』なら、54節や65節など。

*2:数学が単なるトートロジーでないというのは、同じような内容を語りながら、さまざまな抽象度をもった幾つかの理論が可能なことからもいえる。例えば、絶対微分学と多様体論の関係など。