山城むつみという批評家を自分は知りませんでした
- 作者: 山城むつみ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/11/10
- メディア: 文庫
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どの論文も(日本語で)「書く」ということの困難さのまわりを旋回しており、批評というものを精神のギリギリの行為と捉えている点、自分などは恥かしくなってしまうくらいだ。ラカンが『エクリ』の邦訳に寄せた短文(それは、暴力的に単純化すると、音読みと訓読みのある日本語は、常に精神分析を行っているに等しいというような論旨なのだが)を枕にした恐るべき論文、「文学のプログラム」にこんな一節がある。
「ラカンは、その真実を『文体』に託すほかない西欧の精神分析の際どいポジションは、終始、日本の読者の理解を絶しているものだと述べてはばからなかった。しかし、逆に、日本の文学者が『文體(カキザマ)』において取らざるをえないネガティヴなポジションも、終始、ラカン(のみならず欧米において日本の『文』を読む人々一般)の問題の外にある。彼らに幸福とみえるまさにその同じものが我々にとっては不幸でありうる。少なくとも、幸福な装置を与えられた我々のこの不幸は彼らの理解を絶している。我々の不幸は、何を読み、何を書いても、最終的にはどこか虚しいということである。『書く』ことの快楽(バルト)もなければ、『読む』ことの禁欲(ド・マン)もない。ただ、どこかしら虚しい。」
そのあとで、我々は何を書くのか、と。