山城むつみという批評家を自分は知りませんでした

文学のプログラム (講談社文芸文庫)

文学のプログラム (講談社文芸文庫)

著者のことはこれまでまったく知らず、nosさんのブログ「daily report from mt. olive」の記事で知って本書を一読してみたのだが、自分の無知を恥じざるを得なかった。著者は寡作のようで、十五年以上も評論家として書きながら、単著はこれまで僅か二冊しかないが、これだけ本質的なことだけを書いていれば、またむべなるかなである。デビュー作の「小林批評のクリティカル・ポイント」における小林秀雄から、坂口安吾保田與重郎など、重量級の文学者を俎板にのせて、それこそ「切れば血の出るような」批評を書き続けているというのは、現代には稀だというしかない。小林秀雄から柄谷行人の系譜に繋がる批評家というべきで、特に柄谷をもっとデリケートにしたような印象も受ける。
 どの論文も(日本語で)「書く」ということの困難さのまわりを旋回しており、批評というものを精神のギリギリの行為と捉えている点、自分などは恥かしくなってしまうくらいだ。ラカンが『エクリ』の邦訳に寄せた短文(それは、暴力的に単純化すると、音読みと訓読みのある日本語は、常に精神分析を行っているに等しいというような論旨なのだが)を枕にした恐るべき論文、「文学のプログラム」にこんな一節がある。
ラカンは、その真実を『文体』に託すほかない西欧の精神分析の際どいポジションは、終始、日本の読者の理解を絶しているものだと述べてはばからなかった。しかし、逆に、日本の文学者が『文體(カキザマ)』において取らざるをえないネガティヴなポジションも、終始、ラカン(のみならず欧米において日本の『文』を読む人々一般)の問題の外にある。彼らに幸福とみえるまさにその同じものが我々にとっては不幸でありうる。少なくとも、幸福な装置を与えられた我々のこの不幸は彼らの理解を絶している。我々の不幸は、何を読み、何を書いても、最終的にはどこか虚しいということである。『書く』ことの快楽(バルト)もなければ、『読む』ことの禁欲(ド・マン)もない。ただ、どこかしら虚しい。」
そのあとで、我々は何を書くのか、と。