自由意志の計算可能性について

この本はとても刺激的だった。副題に「心は科学で解明できるか」とある通り、本論である第二部は、心と科学の関係を考察する。第一部はそのための準備で、科学論をコンパクトにまとめてあるが、物理学などの理解も(「哲学者の」と断ってあるにもかかわらず)しっかりしているのが好感がもてる。「物理学は近似だ」というのは、その通りである。
 第二部も教えられるところが非常に多い。心と科学の問題について、その水源であるデカルトを精読して考察しているのが、大きいと思う。これで議論に深みが出ている。ただ、心の唯物論決定論を論駁するとき、理論の自己言及によるパラドックスを用いているのは、これはいいアイデアのように見えるが、成立しないように思う。最近たまたま同時に読んでいる、ハンス・ヨーナスの『生命の哲学』でも同様だったが、こういうことだ。すなわち、あなたは心は計算可能で、決定論的だといいますが、そういうあなたの心も決定論的なのですか、と言えばいいというのだが、これは、はいそうです、自分がそういうのも実は決定論的なのです、それがなにか、と返されれば、どうしようもないのである。そんなのは人間でない、などといっても、相手が肩をすくめれば終りだ。本書でも、決定論的だといっても「懐疑」はいつでも可能だから、などとも述べているが、あなたが「懐疑」しているところで脳をスキャンすると、これこれの部位が活発に活動していますから、ここに「懐疑」の巣がありますよ、と返されるかもしれない。
 だから、問題は結局、我々の「自由」は計算可能か、というところに集約される。そしてこれは、ア・プリオリには答えることができない問題である。しかし重要なのは、仮にたとえ自由意志は計算可能だとしても、我々はみずからを、「自由だ」と考えざるを得ない、ということだ。なぜなら、倫理というものは、我々の「自由」が保障されていなければ、崩壊してしまうからである。これは、心が科学で解明できるかどうかとは別の問題なのだ。そしてそれは、内観である「意識」と、実験心理学などで対象となっている外観的な「心」とを区別する、(ヨーナスも云うとおり)ある種の二元論が必要な理由でもある。
生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)

生命の哲学―有機体と自由 (叢書・ウニベルシタス)