スーザン・ソンタグ

土星の徴しの下に

土星の徴しの下に

本書のロラン・バルト論の中に、ソンタグが最後にバルトに会ったとき、バルトが彼女に「やあ、スーザン、いつも真面目だね」と挨拶したというエピソードが書き留められているが、本当にソンタグは真面目な知識人だ。そして、知識人の役割というものを、これまた真面目に信じている人でもある。(だから、日本のある口の悪い文芸評論家が、彼女を「こわいオバサン」などと呼んだくらいだが。)それは、日本と同じく、アメリカという「悪い場所」で「知識人」として生きるという、ある種の緊張感がそうさせたのかも知れない。彼女の批判的精神の厳しさはいうまでもないが、本書でも、レニ・リーフェンシュタールのつく恥知らずな嘘を、徹底的に白日の下に晒したりしている。
 けれども、ソンタグの散文は、決して堅苦しいようなものではない。本書には、文章家の「声」の魅力を語った文がいくつかあるが、これは恐らく実際に発声されるものというよりは、文章の「声」なのだと思う。そして、静かで淡々とした彼女の文体の「声」が、これまた魅力的なのだ。自然に染み入ってくるような感じというか、決して高く大きな声ではない。ちょっと真似がしてみたくなるような文体である。
 ソンタグが本書で扱っているのは、ポール・グッドマン、アルトーレニ・リーフェンシュタールベンヤミンジーバーベルク、ロラン・バルト、カネッティなど、主に西欧の文学者、芸術家、思想家であるが、関連領域を読み込んでおり、正直言って、自分の教養は彼女を読むために充分ではない。まあベンヤミン、バルトくらいのものだが、別に知識がなくとも、彼女の口上を追うのは楽しい体験でありうるというのは、自己弁護ながら言っておこう。
 それから、蛇足ではあるが、読んでいて浅田彰のことが頭を離れなかった。ソンタグの遺著の翻訳の書評を最近新聞に書いていたように、浅田はこのソンタグや、エドワード・サイードなどの、アメリカの偉大な知識人をリスペクトしているが、それは、これまた「悪い場所」である日本で「知識人」として生きるという境涯が、そうさせるのであろうか。それにしても、浅田がソンタグくらいに「文学的に」書ければ、(余計なお世話であろうが)もっと多産で、我々を裨益する仕事ができたろうにと思わずにはいられない。