斎藤環の『家族の痕跡』

家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)

家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)

著者はフロイトラカン的な精神分析を「無謬」のものとして用い、その著作は、基本的に精神分析の立場で書かれる。いつもそこが煩わしいと思われることがあるのだが、本書は「家族論」なのに、あまり精神分析的ではなかったのが意外だった。「家族論」は申すまでもなく、「エディプス三角形」という用語があるくらい、精神分析のホームグラウンドなのである。もちろん基本的な認識として、精神分析が土台をなしていることは語られるのだが、さほど重要な文脈で語られてはいない。そのせいか、本書はあまり違和感を覚えずに読むことができたが、まあこれはいいことなのかどうかは分らない。
 本書は理論書というよりは、エッセイ風の社会評論とでもいった趣きである。時事的な発言はとても鋭いし、「若者文化に詳しい」などいわれる点も(本書ではさほど多くはないが)そのとおりである。しかし、逆にそういう点のためか、時事も若者文化もあまり知らない自分には、いつものことながら、著者の核心が自分をしっかり捉えない。いいとは思うが、どうでもいいとも思う…などという感じか。
 しかし、目の醒めるような一節もあったことを書いておかねば、片手落ちだろう。こんなのです。
「…『愛の形式』が異なることを考えるなら、男女で『結婚の意味』が異なってくるのも当然である。」
「…男(筆者は例外として)は結婚に『所有の永続化』を求め、女は『関係の永続化』を求める。だから男にとっては結婚は『ゴール』にして『あがり』なのだが、女にとっては『スタートライン』でもありうるのだ。いや、もっと極端な言い方をしよう。男性にとっての結婚とは、最高の獲物を捕獲し、所有の焼き印を押して自分の牧場に囲い込むことである。…しかし女性にとっての結婚は、まずなによりも、新たな関係のはじまりでもある。そこで所有の欲望がありうるとすれば、それはむしろ『関係の結果』としての子どもを所有することにより多く向けられるだろう。このように結婚とは、そのはじまりの時点から、大いなるすれ違いをはらんでいるものなのだ。」(p.235-236)
だから、男が浮気するのは、囲い込む獲物が一匹増えただけだし、また女が母として子供を過保護するのも、当然だというわけである。いや、これを読んで怒ってはいけませんよ。それが既に、語るに落ちているのです。