或るソシュール本への疑問
- 作者: 前田英樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/06/10
- メディア: 文庫
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ソシュールの「ジュネーヴ大学就任講演」である。本書に拠れば、ソシュールは、フランス語はラテン語からの変遷であるというのは、誤りだという。どういうことかといえば、「ラテン語」というものから「フランス語」というものへの変化は連続的であり、明確にここで変化した、というような点はない、いってみれば、「ラテン語」も存在しないし、「フランス語」も存在しないとすらいえる、というのだ。「まえの晩sero[ラテン語「おやすみ」]と言って寝たフランスの人たちが、ボンジュールとフランス語で言いながら目をさましたことは、まずなかったわけです。」(p.64)
ソシュールの言っていることは或る意味で正しい。しかしまた、やはり「ラテン語」は存在するし、「フランス語」も存在する。それは「事実としてあるから」ではない。事実としては、ソシュールのいうとおりなのである。ソシュール(そして前田)がまったく見落としているのは、虚構であるはずの(例えば)「日本語」が存在するのは、「日本」という権力と制度の構造が存在しているが故だ、ということである。(それは、アカデミー・フランセーズがあったからフランス語が存在した、というだけのことではない。)そして、「文化の連続性」ということが信じられている、ということも、またそうである。我々が「日本語」ということを意識するのは、「日本」「日本人」ということを抜きにしては、ありえないのだ*1。「標準語」というものが「存在」するのも、また同じ理由である。
もう一つ。ソシュール(あるいは前田)は、どうも本書では、パロールについて一見語りながら、エクリチュールを密かに(詐欺的に)導入している点が多々ある。これは「おふらんす現代思想」ではないが、混同されるべきものではない。(「原エクリチュール」なんていうのは、ここでは考察しない。)何語であろうがエクリチュールがなくとも会話に不自由はしまいが、エクリチュールなくして「言語学」は絶対にありえない。これも信じられないような話である。
以上、メモとして。ざっとは目を通したが、一応残りもちゃんと読んでみるつもりである。
追記
残りも読み終えてみて、大変に刺激的だった。本書に拠る限りのソシュールは、種の存在を信じられなくなった分類学者のようにもみえる。しかしまあ、拙い比喩はやめよう。特に本書後半になると、これはソシュールの考えなのか、前田の考えなのかわからなくなってくる感があるが、それも措こう。とりあえず、前田の抽出した、ソシュールの「ラング」の位置づけが興味深い。この「ラング」は大変に紛糾していて、ああでもないこうでもないと手を替え品を替え説明されているが、その紛糾の元は、次のような意識がないためだと思う。すなわち、「ラング」というのは、(「コトバ」はといってもいいが、)井筒俊彦的な意味で、「世界」そのものに他ならない、ということだ。ここがすべての元だと思う。「コトバ」と「世界」の間には隙間がなく、それがあると思うから紛糾するのだ。そして「単位」の「反復性」も、「世界」が変るだけでなく、「世界」の分節も変りうることにより、流動的になる。これらは鍵であり、ここから拓けてくる地平はほとんど無限だ。これがないソシュールのやり方では、西洋言語学の罠に絡めとられてしまって、結局行き詰ってしまうように思われる。そこでは、語がなにか実体とカップリングしているという発想から、抜けられないのである。