「社会主義」も「革命」も棄てない柄谷行人

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

久しぶりの柄谷行人の新著であり、大著であって、思わず手に取らぬわけにはいかなかった。最近の柄谷の沈黙を思いながら期待して読んだが、読後感はかなり戸惑わされるものだった。それは、自分の素人さ加減が大いに関係しているが、柄谷を読む人の多くは、自分のような素人だろう。
 まず読み始めて感じたのは、記述が相当に形式的だということである。著者はマルクスが『資本論』で資本主義の交換形態を分析したのを受けて、未開社会から絶対王政における交換形態に着目し、互酬性(交換様式A)や封建性における服従と保護(交換様式B)を抽出する。マルクスの分析した資本主義の交換形態は交換様式Cとされる。これらから導かれる「世界史」の分析は、確かに目の醒めるような切れ味を示すところがある。ただ、先ほど述べたように、記述は相当に形式的であって、形式を満たすことが目的となっているような感も否めない。
 しかし、それはまだいい。問題は、資本主義の揚棄のために、現実には存在しないとされる、交換様式Dを導入した後の展開である。それは、交換様式AとCの混合であり、具体的には、柄谷が以前から主張する協同組合(アソシエーショニズム)のことである。著者によれば協同組合は必要であるが、現実には資本の力には敵わないと著者自身認めている。その解決策は実際には(不可能なのだから当然だが)提示されず、そのためには「世界同時革命」が必要だというのだ。著者は本気でこう主張するのだが、正直言って自分には理解不能である。さらには、「世界同時革命」のためには、「世界共和国」が必要だ、となる。ますます以て、理解できない。またさらには、「世界共和国」の成立は殆ど無理だが、それはカントのいう「統整的理念」(不可能であっても、少しずつでも近づいていけばよいという理念)だから、大丈夫だというのだ。
 後は細かい話になるが、著者は、現代のマクロ経済学的な発想をどう考えているのだろうか。「価値の同一体系内では剰余価値は生まれない」というのが著者の意見であり、「資本主義は本質的に外国貿易である」と著者がいうことはその裏書きであろうが、これは自分には殆どナンセンスに聞こえる。国内市場だけでやっている会社は、存在しないのだろうか。また、ミクロ経済学的には、著者は「比較生産費説」を否定しているように見える。実際、本書で「分業」ということは殆ど意図的に無視されている。これも自分にはわからない。もっと細かいところでは、協同組合に至るのに「株式会社」が称揚されるのも謎である。著者のいうとおりなら、株式会社がどんどん協同組合に至ってもよさそうなものだが。
 もちろん以上のことは、素人の思いつきに過ぎない。著者はいまでも、「社会主義」と「革命」を棄てていない。そこいらを専門家がどう判断するか、楽しみにしたい。