永井均の画期的な「独我論」

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)

〈私〉の存在の比類なさ (講談社学術文庫)

柄谷行人は、西洋哲学には「この私」がいないと言ったが、著者の「この私」は、柄谷のそれとはだいぶ違う。著者のいう「独我論」は、「意識」ないし「自意識」の掛け替えのなさとも云うべきものだ。実際、本書の拷問の比喩には痺れた。AとB二人の人間がいて、何らかの方法で、二人の脳(「魂」と云ってもよいが)を入れ替えてしまうことができたとする。そしてBは、ある悪の手先に、お前はこれから手酷い拷問にかけられるが、その後で、拷問の記憶を消してからお前の脳をAの脳に移し替えてやると、通告される。もちろんBは恐怖に陥るであろう。拷問の苦痛を感じるのは自分なのだから。それはいい。では、そこで、拷問の前にはお前の全記憶を消去してやる(そして、拷問後にAの脳に移すのは変らない)、と云われたらどうか。これでもBは恐怖するのではないか。それは、自分の「自分性」は変らないからだ。また、「意識」の問題がここにあることも、明らかであろう。
 これに関して自分が気になっていたのは、「輪廻」の問題である。生まれ変わるとして、その前にレーテ(忘却)の河の水を飲まねばならないのなら、輪廻に意味はあるのだろうか、ということだ。ここでは「意識」の連続性がない。それでも自分の「輪廻」だと云えるのだろうか。
 まあ、そんな話はいいのだが、この意味での「独我論」、自分の掛け替えのなさ、私の「私性」というのは、意外に現代の重要な問題になってきているように思われる。それは、「自由」の問題や、「脳科学」の発展などにも関係している。いま偶々並行して読んでいる、ジジェクの『パララックス・ヴュー』でも、この問題がかなり大きく扱われているほどだ。
 著者は、「独我論」というのは、世界に対する素朴な、基本的な態度だというようなことを述べている。また個人的なことを書いてしまえば、それは勿論その通りだと思うのだけれども、自分は「間主観性」というのもまったく当り前に思われるのである。世界は自分の内にあるが、他人も「実に自然に」「外部に」存在しているのである。だから、前にも書いたことがあるが、自分が仮に哲学者だったとして、「独我論」から世界を構成することは、できないのだろうと思う。これは個々の資質の問題なのか、否か。
パララックス・ヴュー

パララックス・ヴュー

追記

同じ著者の『転校生とブラック・ジャック』を読んだ。これも「独在性」の問題を扱ったもので、対話形式で徹底的に論じられている。これを読むと、上の議論は一面的なもので、この問題は大変に深く複雑なものだということがわかる。本書の議論では、自分は最初に学生Eの意見(自分が自分であることの奇跡性)に惹きつけられたのだが、しだいに、それと対立する学生Cの意見(その奇跡性が、自分だけでなく、すべての人のものである)もとても面白くなってきた。考えてみるに、通念としての哲学は、この学生Cのようなものである、ということだ。これ以外にも、他のたくさんの「学生」が様々な意見を述べており、本書は大変に刺激的だった。
 あと驚かされたのは、本書では、「意識」というものはどうでもいいと見做されていることである。その代わりには、「記憶」が使われているという印象だ。驚いたのだが、これもわからないでもない。しかし、「意識」なしの「記憶」、また、「記憶」なしの「意識」ということは、問題にならないのだろうか。これはよくわからない。
 繰り返すが、本書はまったく面白かった。最近読んだ、東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』まで思い出したくらいである。哲学好きなら、きっと楽しめると思う。

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ