『抱擁家族』を読んでみた

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

いわゆる「第三の新人」は、何となく膚に合わないような気がしていて、今まであまり読んでこなかったのだが、さすがにこれではいけないだろうと思って、本書を読んでみた。云うまでもなく、江藤淳の評論『成熟と喪失』の要を成す、有名な小説である。
 が、読み始めはまったく気に入らなかった。文体はだらしがないし、主人公の性格もうだうだしていて、正直言って不快である。読み進めていくうち、けれども、主人公が呆然としつつ急に生気を持ちだした庭を見ている描写あたりから、次第に物語に没入していくことになった。考えてみると奇妙な構成であり、決定的であるはずの妻の浮気が、既になされてしまったところから始まるのであって、主人公が何とか家族を立て直そうとする話が前半である。そして、これまた決定的であるはずの妻の癌とその死で、半分であり、まだ後半が続くのだ。これにはちょっと驚かされた。それで、妻を喪ったところで家族はさらに崩壊していくのであり、救いもなく、ラストも突然終ってしまう。何という暴力的な小説だろう。
 しかし、全体として見て、どうも薄汚くて陰鬱な印象はぬぐえない。癌が末期になって一時帰宅した妻が、主人公にねだってセックスをするところなど、陰惨すぎてかなわなかった。この小説を称揚する人たちに聞いてみたいが、今の家族というのはどれもこんなに崩壊しきっているのでしょうか。否といえば、ナイーヴと云われるのか。
 また、住宅の様子が家族の風景の比喩として使われているが、これはあまりにもわかりやす過ぎないか。文学部の学生が卒論にするにはぴったりかもしれないが。それから、妻の浮気相手はアメリカ人青年で、そこから「アメリカの影」ということも言いたくなってしまうように出来ているが、これもわかりやすいし、別に論じたくもない。
 と何だか否定論ばかりのように書いてしまったが、本書が古典であることは認めるのに吝かではない。しかし、本書が戦後を代表する小説のひとつだというのは、我々の幸いなのか不幸なのか、ということである。実際どうなのだろうか。むずかしいな。