高瀬正仁の『高木貞治』を読む

高木貞治 近代日本数学の父 (岩波新書)

高木貞治 近代日本数学の父 (岩波新書)

高木貞治は、近代日本の生んだ最初の世界的数学者としてよく知られているが、意外にも纏った評伝はなかったように思う。それを、岩波新書の好著『岡潔*1を書いた高瀬正仁氏が書かれたということで、これは読まずにはいられなかった。これも実にいい本である。淡々としつつ、味わい深い文章で、高木貞治の生涯が綴られていく。ただ、数学的な内容はかなり高度だ。これも、高木の不朽の業績である「類体論」というのが、門外漢に説明するに大変むずかしいこともあって、已むを得ない。まだ例えば岡潔の「(複素)多変数関数論」の方が、字面から類推が利くくらいで、正直言って自分も類体論をよく理解しているとはいえない。本書の工夫は「高校生のために」というコラムで、これでなんとか高木の数学の世界の入り口を示そうとしていて有難い(ただし、高校生といっても、かなり力がないと難しいかもしれないが)。まあ類体論は、古典的な分類でいうと、代数学に属するだろう。
 高木は教科書も少なからず執筆しているが、殆どすべての本が今でも読むに堪えるのは驚きだ。自分も何冊か持っているが、とりわけ有名なのが『解析概論』だ。これは初版がなんと昭和十三年で、七十年以上も前の本であるのに、今でも大学初年度向きとして使用できるほどである。こんな例は、たぶん西洋の数学書でも少ないことだろう。これで解析学を学んだ日本人が、いったいどれくらい居ることだろう。岩波文庫にも入っている『近世数学史談』も、楽しい名著として読み継がれている。とりわけ、冒頭のガウスのエピソード(十九歳のガウスが朝起きた刹那、正十七角形の作図法を思いついて、数学者になろうと決心した話)は有名だ。
 本書に通奏低音のように流れていると感じられるのは、高木は激しい感情に捉われることはまずなかったが、心の底に、ユーモアと深い感情を秘めていたことである。ユーモアは、高木の著書を読んでいると時々気づかせられるが、本書に拠ると高木は、老いたヒルベルトと三十二年ぶりに会い、精神的に衰えたヒルベルトがいまだ数学に取り憑かれているのを見て、「生きながらの餓鬼道ではありませんか」と嘆息し、暗涙を禁ずることができなかったという。著者ではないが、学の深淵の怖しさというほかなく、胸をつかれたけれども、こういうところに注目する著者もさすがである。現代の数学者であり、筆も立ち、数学の古典の翻訳などもなされている著者のような人は少なく、さらなる御活躍を期待したい。
定本 解析概論

定本 解析概論

近世数学史談 (岩波文庫)

近世数学史談 (岩波文庫)

岡潔―数学の詩人 (岩波新書)

岡潔―数学の詩人 (岩波新書)

*1:拙ブログの「岡潔」検索はこちら