マルクスとキリスト教神学

私のマルクス (文春文庫)

私のマルクス (文春文庫)

著者の思想的自叙伝というか、自己形成史というか。同志社大学神学部生の頃の回想がメインで、自分などからみると、思想的にも実存的にも、おそろしいまでに濃密な学生生活が活写されている。読者をぐいぐい引っ張っていく文章の力がすごい。最近でもっとも強烈な印象をあたえられた本になった。マルクスキリスト教神学を同時に学ぶという、ラディカルさ。人間としての魅力。強い絆で結ばれた友人たちと、懐の深い教師たち。深い感嘆とともに読了した。
 著者は特にインテリの家庭に育ったわけではない。キリスト教は母親からのもので、父親は仏教に惹かれていたエンジニアであった。それがここまで思想的に鍛えられた人物になったのは、本人の資質も運もあったと思うが、時代というもののせいも感じる。学生運動の時代というのは、一体何だったのか。いまでは一刻も早く忘れるべきものか、それとも過度に賛美されるかではないだろうか。正確な時代地図というものはないのか。
 それというのも、本書に出てくる先生方というのが、揃いも揃ってみな大変な読書家であり、実力者なのだ。羨ましいというのも愚かである。もちろん自分が名を知るはずもないが、一般的にもさほど知られている人々ではなさそうだ。その頃はまだ、やはり「文化的な厚み」とでもいうものは、確かに存在していたのだ。本書の付録に著者の講演が収められているが、そこで著者も、現代の学力低下を真剣に憂えている。八十年代が年齢でほぼ十代と重なる自分の世代も、その世代に相当すると思う。友人は高学歴の者も少なくないが、読書というと司馬遼太郎程度、というのが、まだマシな方で、文化などと御世辞にも云えたものではない。「文化的な厚み」など、薬にしたくともない。これが自分の周囲だけのことなら幸いである。
 まあ、人のことはいいか。世に概念の操作に長けたかしこい者はたくさん存在するし、それはそれで頑張ってくれと思う。佐藤優などは、彼らは一顧だにするまい。文学好きも多いだろう。彼らも佐藤優など読むまい。